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受賞論考の公開〜キャラバン、城壁、プラットフォーム~⽇本の博⼠課程の歪みとAcademic Transaction Platformのための試論

この作品は第41回昭和池田賞において優秀賞を受賞した。まだまだ不完全な箇所も多いが、ぜひご意見賜われれば幸いである。


「キャラバン、城壁、プラットフォーム~⽇本の博⼠課程の歪みとAcademic Transaction Platformのための試論」全文

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はじめに:生きることそのものとしての学問の自由

 学ぶということは時にいかがわしいものだ。小学校から中学校、高校へと課程を進む中でそう感じてきた。子供にとって学ぶとはしばしば正解を覚えること、あるいは正解に辿り着くことでしかない。正解は常に有効範囲をもつものなのではないかと論理を組み立てても、子供の論理はしばしば黙殺される。なぜ子供は大人に敬語を使わなければいけないのか。なぜ私服で高校に通ってはならないのか。理由を大人に聞いても納得のいく答えが得られた試しがなかった。僕も、あるいは多くの人も、そうした社会で生きている。
 反抗とは知性なのだ。自身がそもそも問題を抱えているのかもしれないと思えなければNoとも言えないし、自身の抱えている問題をきちんと捉えられなければ対処もできない。社会的な圧力や暗黙的な強制に抗えない時、人は次第にすり減っていく。反抗の作法とは、社会において自由を守るための作法でもある。常識や規範を疑うことが当たり前でない社会において、僕はうまく生きていくことができなかった。
 学問の自由とは、僕にとって生きることそのものであった。見えない敵を可視化していくこと。無知を詳らかにし、既知を未知化しながら再編していくこと。僕はその自由さが好きだし、その限りにおいて大学という場所が好きだ。
 今、僕は博士課程に進み、大学の中で再び見えない敵に摩耗している。修士課程から博士課程に進んだ時、驚くほどに大学という場所の見え方が変わってしまった。それは歪んでいて愚かで、胡散臭い人々の溜まり場にすら思えた。こんな場所には長居するまいと考えたりもする。それでも僕は自然と大学の未来を考えてしまう。ちょうど人生について自然と考えてしまうように。
 この論考を通して、日本の博士の歪みについて書きたい。同時に大学の未来を構想したい。ひいてはこれからの社会における学びのあるべき姿を構想したい。風呂敷を広すぎているようだが、実際のところこれらの問題は切り離せない。切り離せないということこそがむしろ面白い。だからこの試論では、自身の経験を振り返りつつ日本の大学システムの歪みの表出として博士課程の歪さを捉えると同時に、むしろこれからの大学のあり方を構想することを通してその歪みを解消するきっかけを獲得することを試みる。その鍵概念として掲げたいのがAcademic Transaction Platform(ATP)である。

1.大学システムの歪みの表出としての博士課程の痛み

 博士の歪みについて理解するためには、まず日本の大学システムの成り立ちの歪さに目を向ける必要がある。現在の日本の大学システムの多くはドイツに起源をもつフンボルト型の大学モデルとアメリカの大学で発明された大学院モデルの接木で構成されている。
 フンボルト型大学とは19世紀の大学において権威主義的な学問のあり方が蔓延し、知的活動の場所の重心が大学からアカデミーに移ってしまっていた中で、新しい知的活動のあり方としてドイツにおいて構想された大学モデルである(参考文献1)。権威主義的な大学がいわば「正解」を重視しそれを学生に教授していくことをその役目と捉えたのに対して、フンボルト型大学はむしろ教員と学生の対話の中でこそ知が生まれてくるのだと考えた。いわば絶対的な正解を否定することによって大学の権威主義的なあり方を否定したのである。そこでは学生は学び手であると同時に、知の生産の担い手でもあった。こうした理念が表現されたのが教育と研究を合わせた課程モデルである。すなわち課程の前半では学生は教員から様々なことを教わり、次第に実践的に研究に取り組みながら知を自ら生産しつつ学ぶ。これが現在の日本の大学において、学部1、2年の頃に然るべき講義を受けたのち3年生や4年生になるとより専門的な事項を学ぶとともに研究室に配属され、研究者の卵として活動しながら学んでいくという課程モデルの由来になっている(参考文献2)。
 一方で、大学院とはそもそもフンボルト型理念の体現のためにアメリカで発明されたシステムである。19世紀のアメリカの大学(カレッジ)は、権威主義的なイギリスの大学のあり方に強く影響を受けていたこともありいわば「正解」を伝達する場所であった。そうした中で当時の優秀な学生やスタッフがドイツに留学し、フンボルト型大学の存在を体感する。留学した人々はこのモデルをアメリカにも持ち帰りたいと考えたが、カレッジで職をもつ教授らの既得権益と反目し職を脅かしかねない構想であったために彼らから強烈な反発にあうことになる。そこで妥協点として構想されたのが、学部課程のカレッジを教育課程と捉え大学院において研究活動を行うことで、カレッジと大学院の組み合わせによって「フンボルト型大学」の様相を実現するというものである(参考文献2)。ジョンズ・ホプキンス大学において始められたこの制度は次第に世界に広まり、日本でも一部採用されるようになっていった。ここに接木の起源がある(参考文献3)。
 この2つのモデルの由来をみると明らかなように、今の日本の学部と大学院の関係はいわばフンボルト型大学の理念の重ねる塗りのような構造になっている。しかしそもそも日本において大学院はそこまで重視されていなかった。1960年代から90年代にかけ、産業界からの要請と政治的な思惑のなかで大学院拡充への支援やそのモチベーションとなる制度が追加されたこともあり2、それぞれの大学に大学院が設置され次第に拡充されていった(注1)。
 「重ね塗り」構造の拡充に伴って、学部と大学院の教育及び研究を負担する教員の負担は増加する。多くの学生に対して数少ない教員では丁寧には対応できないことは明らかであるとともに、遅々として事務システムの改善が進まないことも相まって教員らの大学運営業務の負担も増大する。実質的な研究の担い手不足も生じてくる。
 そうした中で実質的な研究や教育の一部、非効率的な事務システムの中での運営業務を一部引き受けることになったのが博士学生であるといえる。一部の優秀な学生を除いては無給で、むしろ学費を支払いながら研究室の研究から運営まで実質的な業務を担う。労働基準法などによる保護や社会保障もないために疲弊し、いき過ぎた大学院拡充のために人材が増えすぎて産業界からのニーズと合わなくなった結果として、博士課程の学生にはキャリアの展望もないという状況が生まれた。
 文字通り生きることすらまともに保障されない中で働かなければ、学位は得られない。学位を取れないことは博士課程の学生にとって社会から職の可能性が失われることを意味すると同時に、博士課程に進んだ期間の投資や労力を水泡に帰すことにつながる。また、浪人生をしているような同世代から遅れをとっている感覚も非常なストレスとなることも付け加えておきたい。周囲の人間からは「いい歳してまだ好きなことをしている」「いつになったら働くのか」という視線を向けられる。だから他人にうっかり愚痴を漏らすこともできないし、助けも求めづらくなっていく。そうした中で小さなベンチャー企業のような研究室においてプレッシャーや人間関係に疲弊し、身動きが取れなくなり、無駄な事務作業に忙殺されながら擦り減っているのが多くの博士の現状だろう。
 こうした状況と経緯を踏まえれば、博士にとりあえずお金をあげればなんとかなるということではないのは明らかだろう。多くの著作やメディアで展開される博士学生に関する議論はそうした博士の救済のみに目を向けているとともに、そもそもの大学システムの歪みを踏まえていないという点において的外れであるとも思う。博士学生の過程だけが問題というよりも、日本の大学システムのあり方そのものに致命的な歪みがあって、その歪みが一部わかりやすく表出しているのが博士課程の現状というのが実際のところではないか、と思うのである。

2.Academic Transaction Platformの構想

 前章では日本の博士課程の歪みを大学システムの接木構造の歪さの結果として捉えたが、そうした理解を踏まえると、博士の歪みを正すためにはそもそも日本の大学システムの再編を構想しなければいけないということになってくる。
 こうした中でAcademic transaction platform(ATP)という概念を提示したい。ATPは主に大学の事務システムを効率化するための構想の概念である。
現代社会の状況を踏まえると、端的にいえば大学は知的活動のプラットフォームであればいいのだろうと思う。プラットフォームとはアレックス・モザドとニコラス・L・ジョンソンによれば、一般の人々の生産と消費活動のやり取りを円滑にし、ネットワークを醸成することでそこから利益を得ていくというビジネスモデルのことであるが(参考文献4)、ここではこうしたモデルをアカデミアの活動へと当て嵌めてみたい。例えばAmazonやメルカリのように、多くの人々や研究体や法人がそこに参加し、やりとりをすることを支える基盤がATPの目指すものである。大学の事務システムをATPシステムへと置換するのである。
 研究組織や研究者、企業が大学のATPシステムに参画する。そのプラットフォームは研究組織同士や研究組織と企業の間の共同研究や協力関係や業務委託のやり取りといった「トランザクション」を円滑に行えるように支える。
 いわば今の大学は簡単な物品の決済とやりとりに何週間もかかるAmazonのような側面がある。登録には何年も修行したことを示す免許が必要で、物品のちょっとした契約にも処理に時間がかかり手数料が物品の3割くらい取られる。こんなプラットフォームでは本来誰も利用したくないだろう。ECの場合、もしもAmazonがこんな低レベルなサービスであれば楽天やメルカリなど他のサービスを利用することもできる。しかし大学の持つある意味特権的な地位が、こうした非効率的なあり方を許してしまっているように思える。
 例えば僕の所属する大学では経理手続きや人事手続きや学部や専攻ごとに異なり、経理の確認も二重、三重に行われる。また共同研究を取りまとめた際には簡単な契約の確認手続きに何ヶ月もかかったし、博士課程では研究分担者として契約書に名を連ねることもできない。外部での研究成果の展示を企業と共同で行なった際には展示制作の実費などもスムーズに受け取ることができなかった。
 他にも学生として手続きの問い合わせに向かうと邪険に扱われたり、教員から口利きしてもらわないと対応してもらえなかったりするなど、学生相手への事務対応は信じられないレベルにある場合も多く経験してきた。例えば僕の所属する大学院では、博士課程の取得のための手続きの詳細を事務方に問い合わせても、教員からの問い合わせでなければ教えてもらえなかったりする。信じられないことだが、教員の知らないところで学生いびりとしか思えない状況も多々生まれている(注2)。
 こうした学生として感じる問題と、教員の抱える不自由や手続きの面倒さなどはおそらく同じ問題であろう注3。大学法人化された多くの日本の大学において事務システムの改善は必須であるといえる。そこでは研究や教育活動そのものとそれらを支えるシステムは一旦区別して考え、事務システム自体は一般企業の考え方も踏まえながら徹底的に効率化していく必要がある。それを突き詰めると、研究活動を支える有用なプラットフォームを構築していく必要があるという考えに至るのである(注4)。
 ATPは具体的には次のようなイメージである。まず大学のシステムとしてATPシステムが存在し、そこには研究室をはじめとする研究体や研究者個人、あるいは企業やその他法人が乗っている(Fig.1)。ATPシステムに参画している主体には大学に属する研究主体と外部の主体がある。主体にはその規格(研究組織か、個人かなど)によって必要なサービスが提供される。例えば人事システムは、研究組織によっては正規雇用などが必要だが個人にとってはそこまで必要でない。経理システムはしかし研究組織にとっても個人にとっても重要であると同時に、その人の種別によっても必要なサービスが異なる。こうしたニーズの差に合わせてサービスを提供し、知見を蓄積し雛形を整理しつつ効率化していく。他にも法務システムは様々な主体の共同契約などのトランザクションを支える。ATPはシステムを個々の処理ブロックをあらかじめ適切に切り離し組み合わせておき、ひとつのシステムをアップデートすれば他のトランザクションの処理も全てアップデートされるように構成される(注5)。

Fig.1 Academic Transaction Platform のコンセプト

 ATPでは主体間の処理をスムーズにすることでトランザクションそのものの絶対量を増やし、トランザクションごとに入る利用料を底上げしていく。そうして大学の事務システムの効率化と大学での研究活動の発展が相乗していく。
 そこでは大学院の課程のタグをつけられた「学生」が柔軟に職を獲得することもできるようになる。大学として一括で博士学生に最低限の生活費を分配する仕組みの構築も容易になるとともに、研究室における雇用や他の組織体からの給付奨学金の受給もスムーズに行われる。いわば個々の研究組織などにおいて新入社員として研究をしながら資格取得をするという本来当たり前のプロセスが、やっと可能になってくる。加えて、アカデミックハラスメントなどの問題が発生した場合にも学生を他の研究室へスムーズに分配したり、スタッフも他の組織体へと一時的に異動させたりするなど、研究室というモデルの利点を維持することもできつつ、その不合理な側面を解消できるようになる。 

ATPは現在の大学モデルの根本的な再編というよりも今の大学で起こっている様々な事柄をより効率的に実行できようにするためのモデルともいえるが、同時に大学の縦割りを崩す提案ともいえる。このプラットフォームではこれまでの大学のような「レイヤー」を基盤とした構造ではなく、「タグ」を基本としたシステムとする。すなわち例えば研究室は大学院の中に所属するのではなく、所属する大学院の課程のタグを貼り付けられることになるのである。そのことによって研究科や組織の基本的な役割を、研究主体をタグでソートし割り当てることで維持できるとともに、柔軟な研究主体間の連携も可能になってくる。また研究科などの担う役割の再編も容易になってくる。
 何より今の大学に必要なのは「変化し続けられることは変わらない」システムである。常に必要に応じて壊し改変できるとともに、その変化に継続性があるようなシステムが必要なのである。こうした観点に鑑みれば、個々の研究主体や組織間のシステムにおける過剰な癒着関係を剥がしつつ再構成を促すプラットフォーム型の大学システムの必要性が強く浮かび上がってくる。
 かつて大学とは、キャラバンのように各地を巡り、地域に点在する知を蓄えつつ醸成させ、それをまた別の地域へと広めていくような人々の集団であったという(参考文献2)。社会の変化とともにそうしたあり方は消え去り、やがて国民国家をバックボーンとした新しい大学モデルが生まれてくる。前者を「キャラバンモデル」と呼称するとしたら後者は「城壁モデル」であったといえるだろう。囲われた“自由”な空間の中で知的活動に取り組む。キャンパスの形式や地域との関わり方にこそ差はあれ、概念的には学問の自由で守られた城壁の中に大学という組織の活動の場は移ったといえる(Fig.2)。

Fig.2 大学モデルの変遷の整理

 こうした変化の背景には印刷革命の影響があったという(参考文献2)。かつて本の印刷技術がない頃には人々の議論の中にこそ知が蓄積されたが、本が大量に刷れれば人々が移動せずとも多くの人に知を提供できる。現在ほどの移動が可能になる前の時代には、人ではなくむしろ本を移動させることで城壁の中に知を蓄積していったのではないか。しかし移動の自由が広がり、同時に知をオンラインで展開していくことが容易になるとき、そこでは知の担い手が集団であることの意味が薄れてくるともいえる。すなわち知が容易に個人に蓄積でき、個人間でやりとりできるようになったのである。そうした中で、「城壁モデル」から「プラットフォームモデル」への移行の必要性が浮かび上がってくる(注6)。

3.研究と教育の新しい接界面としてのATP

 また、ATPシステムは単に研究活動を効率化するのみならず研究と教育の新しい接界面として機能する。以下の図に示すように、ATPシステムは大学において教育機会のアレンジメントも担うのである(Fig.3)。

Fig.3  ATP がアレンジする教育の構図

 学部学生の専門性のグルーピングとしての専攻はある程度残しつつ、プラットフォーム上の研究者や研究主体に教育負荷を適切に配分し、専攻科をインターフェースとして学生に授業が提供される。そのことによって教員のみならず他の企業などからも人々が教えにきたりすることをよりスムーズに行えるようにする。こうしたあり方自体も既存の大学と大きくは変わらないが、こうした活動をATPシステムに載せることで効率化が進み再編や複数の専攻間の授業での連携もしやすくなる。新しい研究科を作ったりする場合にもすぐにシステムを拡張することが容易である。
 さらに、複数の大学を一つのATPシステムに乗せていくこともできる。ここで、研究と教育活動の間にATPという基盤を据える意味がさらにクリアに浮かび上がってくる。すなわちATPシステム上の知識を集約し学生に教育の機会を提供する地域ごとのインターフェースとして個々の大学を位置付けることもできるようになる(Fig.4)。

Fig.4 地方大学をインターフェースとして提供される教育

 特に教育活動の観点からは、大学が地域に存在することが非常に重要である。大学は社会のインフラでもあり若者を集め留める役割も担うからだ。例えば僕が自身の研究で深く関わることとなった愛媛県の今治市には、大学がほとんど存在しなかった。そのことがそこに住む高校生や中学生の学びの機会を奪っていることは想像に難くないが、同時にそれは地域の発展を妨げもする。今治に住む人々は大学に通うためにはまず地元を出なければならないのである。それは地域から若者を奪い、産業の担い手を流出させる。大学がなければ他地域からの若者の流入も少ない。そのために今治市には、話題となった加計学園の今治での建設を好意的に受け止めている人も多い。教育インフラとしての大学の存在は、教育の機会の配分を可能にすると同時に地域の維持と発展の観点からも不可欠だからである。
 日本では科研費や大学への助成金が減少傾向にあり、大学間での格差も著しいことから地方大学では特に根本的な改革は難しいと考えられる。現在の大学制度ではどこか一つの大学で事務システムの改善が行われたとしても、それを他の大学で展開しようとすると多大なコストがかかる。
 一つのATPシステムで複数の大学の事務システムが担えるようになれば、一つのシステムだけ改善すれば全ての大学の事務システムが効率化されるという状況が可能になってくる(Fig.5)(注7)。ATPシステムの実現は地域における教育格差の解消につながるとともに、地方大学の余分な体力の減少を防止することにもつながる。さらに地域の中で大学が担ってきた教育インフラとしての側面を再編し、地域社会に対する大学組織の貢献をより活発化させることに繋がりうる。日本中の大学の最先端の研究者らの講義を今治で実施することも容易になってくるのである。そうした中で新しい地域と大学の関係性を構想することもできよう。南原繁は東京大学を中心として地域と大学が深く関わる文教地区の構想を掲げたが(参考文献3)、ATPモデルではより広い日本全体の中で地域と大学の関わり方を構想していくことができる。
 まずは小さな地方大学でこのATPモデルのシステムを実装できるといいだろう。インストールのノウハウも整理し蓄積していく。初めにこうしたプラットフォームの実装が一つの大学でできれば、そこにすぐに他の大学を加えることができるようになり、次第に日本の多くの大学をATPシステムに載せることができる。日本全土にわたる教育ネットワークも醸成されていく。
まずは大学の徹底的な効率化のシステムの構築をミニマルのコストで進め、常にミニマルコストで展開していけるようなシステムのあり方が必要である。最小限の運営コストで、日本全体に影響を及ぼせるような仕組みの構築につながる基本的な考え方がATPだと考えている。

Fig.5 ATP の複数大学における拡張

4.僕たちはどう生きねばならないのか

 2021年の年末に、筑波大学で大学教員による博士学生へのセクシュアルハラスメント事件があった。当該教員は逮捕されたという(参考文献5)。事件から少しして、被害者女性を名乗るアカウントからTwitterへの事件についての投稿があった(注8)。
 投稿の内容は教員を批判したり貶めたりするというものではなく、弁護士や病院などどのような機関に頼り、どのように対処したのかが丁寧に綴られていた。そこでは現在の大学システムの構造的な問題が引き起こす不安についても痛々しく綴られていた。彼女はハラスメントを避けようとしたし拒否もしたという。しかし加害した教員の研究室が大型の研究費をとっている研究室であったこともあり、自分が告発することで教員のみならず予算で採用されている他の職員や学生、研究室の出身者にも迷惑をかけてしまうのではないかと考えた。その責任感と恐怖から長い間告発することができなかったという。この投稿が本当に彼女自身によるものか確かめる術はないが、軽視していい言葉ではないと思う。言葉の中に潜む切実さから目を背けるわけにはいかない。
 文部科学省の「学校基本調査」によれば、日本の博士課程の学生の卒業後の進路調査で、およそ6〜9%ほどの人間が「不詳・死亡の者」に区分される(参考文献6)。学部卒だと1%以下である。もちろんこの統計の仕方を精査しなければ正確なことは言えないが、言葉にできずに博士課程の修了後に心を壊してしまった人も少なくないと想像される。
 僕自身はあと1年で博士を終える。職を得られれば、別の苦悩と向き合う中でいつかは今の切実な苦悩も忘れてしまうのかもしれない。そして「博士は大変だよね」と振り返る大人になるのかもしれない。それは恐ろしいほどの罪でもあると感じる。自分がなんとかして課程をやり過ごしてしまうことは負債を未来に引き継ぐことにもなりかねない。
 僕はこれまでの弱い立場から見えている景色がどんなにか凶暴で、恐怖と苦痛に満ちているものであったかを忘れないでいたい。自身が生きてはいけないと感じた苦痛、わかりやすい「正しさ」を教育する教育システムの苦悩、そして大学で見出した喜びと、その中で再び感じている閉塞感。その全てを引き受けながら未来を構想したい。
 僕たちはどう生きていきたいかということと同時に、どう生きねばならないかということとも切実に向き合わなければならない。Academic Transaction Platformはまだ不完全で不十分な構想である。しかしそれを「こう生きていきたい」という希望のモデルとしてだけでなく、「こう生きねばならない」という責任のモデルとして捉えてみるとき、そこには新しい価値の可能性が浮かび上がってくる。それは誤解を恐れずにいえば、逃げられる自由である。
 これまで大学は様々な「自由」に依拠してきた。「キャラバンモデル」は移動の自由に支えられる。「城壁モデル」は学問の自由の理念に依拠している。同時にそれぞれは貴族や軍や国民国家や国民というパトロンに支えられ守られながらそれぞれの依拠する自由を体現してもきた。
 AmazonやUberやAirbnbをはじめとするプラットフォームは、選択する自由というよりもむしろ自分が選択したくない人々や組織や商店から逃げられる自由を提供しているとも捉えられるだろう。それこそが様々なテクノロジーで可能になったトランザクションの地域的な広がりや深まりの中で可能になってくる自由でもある。
 大学が社会に開かれ、連携しようとするほどにリスクも高まる。企業と大学の連携は好ましいことばかりではないし、学問のあり方も多様化し社会が複雑化する中では必ずしも対話は好ましい結果につながらない。その一方で思っても見なかった思考の出会いが学問を大きく発展させることもある。そこでは失敗は多分に発生しうる。そのことは前提であると同時に可能性である。ATPはそうしたリスクを踏まえつつ、逃げられる自由への依拠によって学問に関わる人々の確率論的な自由を保証する。つまりATPの発達によってトランザクションが効率的になり、またそこでのトラブルや不和を防ぐシステムとして育っていくことで、ATPに参画する主体は様々な主体と繋がるチャンスが実現されるとともに、合わない主体から離れる安心を獲得するのである。ATPを基盤とする大学システムにおいては、人々は様々な地域を移動し互いに連携しながら学知を発展させていくことができる。同時に、そこでは学問の自由はシステムのプロトコルやルールの中に宿っていく。現代においてはこうした自由の体現が必要なのではないか。

最後に:生への責任と大学

 本稿では、博士課程の歪みを日本の大学システムの歪みの表出として整理しながら、そうした歪みを正すシステムの基本理念としてATPという考え方を提示した。
 ATPシステムは大学の事務システムに代替し、研究主体間のトランザクションを効率化するとともに、システム上の学知をアレンジメントして学科や学部をインターフェースとした教育の提供を支える。ATPは拡張性を有し、複数の大学を一つのATPシステムに載せることで一つのシステムを改善すれば他の大学の事務システムも一気に改善できるようになるとともに、日本全体の中で、大学をインターフェースとしてATPシステム上にある学知をアレンジメントした教育を各地域に提供できるようになる可能性も示した。
そして最後には、「キャラバンモデル」と「城壁モデル」が依拠するとともに体現してきた自由がATPモデルの中でも構成されうるとともに、逃げられる自由が体現されうることを確認した。
 冒頭に述べたように、知は生きることを支える。その意味で大学は人々の生を支えるインフラでもあることをもっと強く自覚する必要があるのではないか。大学は人を傷つけ時に死へと向かわせることもある。
 もちろん自由競争による場づくりは必ずしも弱者を守らないし、多様な人々が関わる大学であるからこそ自由でありつつも不平等や「学問」の平等性を担保するようなルールを醸成させていかなければならない。様々な角度からATPについて検討を深めていく必要がある。知性の自由と発展が今後の社会の中でどうあるべきか、僕は手を動かしながら考え抜いていきたい。

注釈

注1) 日本では特に大学は学問の場であると同時に官僚などの育成システムでもあることが要請された。そのことがいびつな大学システムのあり方を助長したとともに、その要請が変化していく中で接木のモデルがそもそもの形式をふまえずに展開されていった結果として歪みが生じているとみることもできるだろう。

注2) 一方で学生という立場が社会の多様な人々との対話の場面で有効に働いた経験もある。しかしそれは学生という立場よりもむしろ、基本的に非営利である大学の人間であるという要因が大きいようにも思われる。この論考を通して博士課程の学生を考え直すのであるが、筆者はシステムの運用の観点から現在の大学院以上の学生は職員として採用できるシステムが必要であると考えている。

注3) 国の機関のシステムも当然に問題を孕んでいるが、本稿では大学システムのはらむ問題に特に注目して議論を進め、国の機関の再編可能性については今後の議論で引き受けるものとする。

注4) そもそも現在の日本の大学モデルをそのまま受け入れていいのかという指摘もあり得るが、のちに述べるようにATPとは日本の大学が改変していくことを支えるシステムの考え方であり、いわばATPを先に整えることが今後の大学の柔軟な変化を支える基礎体力を作ることにつながるというのが筆者の主張である。

注5) こうした考え方はシステム開発の場面でコンポーザビリティ(Composability)と呼ばれる。

注6) アレックスらによればプラットフォームモデルの発展と興隆の引き金となったのはコネクテッド革命である。高い処理能力と記憶容量をもったコンピュータが一般に安く普及したことで、人々はプロフェッショナルなツールを安価で使えるようになったとともに、通信コストが大幅に下落したことでプラットフォーム上での価値のシェアがきわめて容易になった。さらにユビキタスなコネクティビティとセンサーが普及し情報が大量に取得されるようになったとともに、それらの処理技術が発展したため、ユーザーの状態の把握やマッチングの最適化といった処理が現実的に可能になった。こうしたコネクテッド革命が、膨大な情報をリアルタイムで処理し適切にトランザクションを処理する必要のあるプラットフォームを実装可能なものにしたのである。本稿で提案するAcademic Transaction Platformもそうした社会のテクノロジーの発展と一般化を背景として構想される。

注7) 大学のシステムには無駄があまりに多いと筆者は認識している。家計に例えるなら、冷房をつけっぱなしにして寒いから暖房をつけるといい、乾燥するから加湿器を買って使い、お金が足りないから国にお金を出せと言っているように見える。そしていちいち訳のわからないルールが紐づいている。「寒いですね」「〇〇先生がつけた冷房なので消せません」「じゃ暖房をつけましょう」そんなやりとりばかりにも筆者には見える。例えば東大においては学部の方が大学そのものよりも歴史が古く、そこには学部間などで複雑な関係性が存在することが吉見によって示唆されている3。こうした経緯については本来大学ごとに解かねばならないと考えるが、むしろそのことが日本の大学システムの改善を妨げているのであれば、こうした経緯をある程度切断しながら未来を考えていかざるを得ない。哲学者の國分功一郎は、意志とはいくらでも遡ることのできる過去との因果関係を断ち切って新しい行為の出発点を作り出すことだと整理しているが、その意味についてAcademic Transaction Platformの概念自体は過去を適度に断ち切りつつ未来を考えようとする「意志」としての概念であると言えよう7。

注8) 当該Tweetとアカウント自体は現在削除されている。記録などは現在もWebに一部残っている。本稿ではその厳密性には問わず、Web上の記録を参照しつつも筆者の記憶も頼りとしながら、Tweetから推察される内容の意味そのものに強く注目して議論をすすめる。

参考文献

  1. 山口裕之. 「大学改革」という病 学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する. (明石書店, 2017).

  2. 吉見俊哉. 大学とは何か. (岩波書店, 2011).

  3. 吉見俊哉. 大学という理念: 絶望のその先へ. (東京大学出版会, 2020).

  4. アレックス・モザド, ニコラス・L・ジョンソン & 藤原朝子(訳). プラットフォーム革命 経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、どう作られるのか. (英治出版, 2018).

  5. 筑波大学. 本学教員の逮捕について. https://www.tsukuba.ac.jp/news/20211207173000.html.

  6. 文部科学省「学校基本調査」. https://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa01/kihon/kekka/1268046.htm.

  7. 國分功一郎 & 熊谷晋一郎. 〈責任〉の生成 中動態と当事者研究. (新曜社, 2020).

あとがき

この論考は僕が2月頃に書き上げたものだ。テーマは博士課程の歪みとアカデミアのこれからについて。構想には2年くらいかけた。博士での2年の様々な経験を少しずつ溜めておいて、それらを集成するように書いた。

2月は博士2年目の終わりであり、とても辛い月でもあった。2年に渡る歪みが蓄積して心を圧迫し鬱々としていた。心は重く動けなくなり、どうしようもない状況も続いた。その中で治療のような意味もこめてこの論考を書いた。

そのためか、論考の端々につらそうな感じが残っている。論自体は自身の経験をもとに博士の由来や日本の大学システムの成り立ちまで遡り問題を分析しながら、ではこれから日本はどうするべきか?という改善案としてAcademic Transaction Platform(ATP)という構想を掲げ論じるダイナミックなものなのに、そこには構想ににじみ寄ろうとする辛さと、その結果としてのイタイタしさのようなものがみてとれる。はっきりいって少し恥ずかしくなるようなイタイタしさでもある。

それでも今の僕としては、できる限り多くの人にこの論考を読んでもらいたい。文章の端々から漏れ出る切実な辛さも含めて読んでもらえればと思う。今の日本では博士の待遇などが問題として提起されることがしばしばある。そこでは改善のために「お金を出せば良い」となったりする。そうではないのだろうなということを、この論考から感じてもらえると思う。

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