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インポッシブル・アーキテクチャー展の感想

インポッシブル・アーキテクチャー展は率直に言って、建築を専門にしている人以外ほとんど楽しめない展覧会といっていい。ただ、建築を専門としていなくても絶対に見ると楽しい展示が二つある。これだけでも行く価値はある。

はじめに:インポッシブル・アーキテクチャー展について

本展はインポッシブル・アーキテクチャー概論、というような展覧会ではない。「空想建築よく知らないけど気になる!」という人の期待に応える感じではないということ。

建築ではよく「アンビルト」建築という言い方がされる。建てられなかった建築。それ以外の言い方もあるが、多くはこの言葉で表現される。そしてその言葉はしばしば「空想的な建築」「実現不可能な建築」というニュアンスも含む。

いわばそれは思想的な原器といっていいと思う。建てられずとも、思想として、概念として、様々な建築の実作に影響を与えているところに意味がある。

本展ではアンビルトも含め、コンペで勝利し実現性は十分あったが建たなかった建築などさまざまな理由や条件で「Impossible」であった作品が並んでいる。

(1)ザハ「新国立競技場」

この展覧会で見るべき価値がある一つ目は、ザハの新国立競技場。日本でトップクラスに有名なImpossible。

この案が、ほとんど設計が完了したタイミングで白紙となってしまったことは有名な話。

展覧会の最後にザハのコーナーがある。日建設計をはじめとする連合軍がザハの案を実現しようと築き上げたとても分厚い実施設計図面集や、構造設計書が並べられていて、風洞実験用の模型まである。この物量に圧倒される。法的にも構造的にもクリアされ、あとはGOサインを待つだけだったという。確認申請という役所への着工のための申請日の前日に、ときの首相によりストップが表明されたらしい。

模型をみて、「Impossible」の意味を再考せざるを得ない。そこには、コンペの勝利報告で見たザハのダイナミックで、鋭利でスタイリッシュな宇宙船的イメージは見当たらない。かっこよさはなく、異常なスケール感だけが残っている。

いくらそれが建設可能な「ポッシブル・アーキテクチャー」だったといわれても(展覧会でも「建築可能であったプロジェクト」と注がついている)、当初の姿はもはや「Impossible」だったのではないかという気になる。

建築は、実際に設計案ができてからも、経済的な理由や施工上の理由などによってさまざまに変更が加えられる。そうして建ったものが当初思い描かれた姿と異なっていても「Possible」であった建築となる。しかしそれはすでにImpossibleであったものではないか。だとすれば何をもってその建築をImpossible、Possibleというのか。

それは二項対立ではなく、内包しあっていると考えていい。PossibleのなかにはImpossibleがあって、ImpossibleのなかにもPossibleはある。そういった展覧会の意図を考えるにあたり、ザハの展示は興味深い。

(2)会田誠「シン日本橋」

2つ目。これは山口晃の「新東都名所 東海道中 日本橋 改」のオマージュ作品だ。

山口晃の作品は、日本橋の上にかかる首都高の撤去問題における「首都高を残すか、撤去するか」という膠着した議論の打開策として、むしろ現在の景観を逆手に取り、いっそ首都高の上に新しい日本橋を架けてしまおうというもの。この絵はとても美しい。

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画像はこちらより引用

会田誠の作品はそのオマージュで、左下には「ニセ口晃」と書いてある。これはお世辞にも上手な絵とは思えない。ただ見れば見るほど面白い。山口が描いた首都高の上に橋を架ける構想をもとに、勾配があまりにきつくなりすぎて登りづらくなった日本橋を描いている。ずり落ちている人がいたり、橋の欄干を伝って登っている人がいたり、下手に落ちて担架で運ばれている人がいたり、スノボか何かしている猛者がいたりする。その様をみていると「自分ならどう登ろう」という気になってくる。

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画像はこちらより引用

会田誠の作品が、山口晃の作品に対する多様な解釈を許容する触媒になっている。二つの作品が並ぶと、都市の未来像を自由に発想する楽しみに駆られる。一つの絵だけではなく、触媒がともにあるところに意味がある。

山口晃の作品では、ほかにも都庁案の絵などがある。いずれもどこか「こち亀的世界観」で満ちている。これには会田誠の「注文書」も隣に展示されている。この共存のおかげで、作品を多面的に楽しむ視点が生まれる。

僕は子供のころ、大事なことの多くをこち亀から学んだ。その発想のダイナミックさ、風刺性、あほらしさの共存はずっと好きだった。インポッシブル・アーキテクチャー展で展示した方がいいような建築作品もたくさんある。そしてそこでは、人がいつも輝いていた。

僕が「インポッシブル・アーキテクチャー展」が、多くの建築を専門としない人にとってあまり楽しめないだろうと思うのはそこである。人がいないし、建築の造形の意味も、立ち位置もよくわからない。「変なドローイングと模型が並んでいるなあ」と思う人が多くても不思議ではない。文章を読んでもあまりよくわからないと思う。展示には章構成もない。

ただ山口晃と会田誠の作品は楽しい。人の姿が見える。だから空間を考える。Impossible建築の価値を実現するための、たくさんの仕掛けを見つけられる気がする。

さいごに:可能性と不可能性のあいまいな境界

五十嵐太郎さんのクロストークでは、建築模型に関する話があった。建築模型はしばしばスタイロフォームやスチレンペーパーといったもろい素材でつくられる。対して、木の模型は長く生きながらえる。ブルネレッスキの木の模型などは500年近く残存するとも。

つまり実際に建築が建てられ、壊されて、ずいぶん時間がたってしまっても、木の模型だけは残っている。そして模型が体現する姿こそが、後世の人の多くにとってはその建築の真実の姿になる。何が可能だったもので不可能だったのか、もはやその境界は時間の淘汰のなかであいまいになってしまう。

「ImpossibleとPossible」は建築の話であろうか、と思う。建築でImpossibleであったとしても、目指しているのが「より良い暮らし」「人の笑顔」であれば、解法はなんだっていいのではないかという気にもなる。

建築をたてること、たてられないこと。その役割と意味について考えるためのフリだとすれば、きちんと前半の展示も観る価値はあるかもしれない(アンビルト系の建築が好きな人にとってはなかなか楽しいけれど)。

建築好きはタトリンの模型もかっこいいのでみれるといいです。

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