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哀愁と労働の未来〜”ゴミ”に夢の残り香をみた

都市のデータとして最も価値があるのはゴミかもしれないと思う。ゴミ収集車にカメラセンサーをつけて人々の生活を眺めたなら、本当の生活像がかなり浮き彫りになる。

「何を買ったか」に加えて、「どう使ったか」が明らかになる。人気商品が本当に人気かどうか。半分残されたスナック菓子、破り捨てられたチラシ、飲みかけのビール、潰れたクッション。

購入はいつも期待であり、ゴミは歓喜か哀愁を孕む結果だ。そこには常に人のストーリーがある。

破り捨てられた楽譜、白紙のままの原稿用紙の束、手のつけられていないハンバーグ。

そこには夢の残り香でさえみることができる。腐りかけのハンバーグは匂いたくない。みるだけだ。

メルカリではゴミも売れるという。それが嬉しいのは突然にお金がもらえたからじゃなく、ゴミが再評価されるわくわくがあるからだ。

ウサギ狩りにでかける人に「ウサギあげるよ」といっても求められないことがあるように(パスカル)、お金という価値以上に、ゴミの価値の再発見が嬉しい。

そして同時に、メルカリではそれがどう使われるかはしばしば隠されているので、まるでゴミに夢をみるような楽しみがある。

ゴミは時としてゴミではない。これは労働市場にも当てはまる。

若いクリエイターに契約書は難しい。けれど老人なら、手慣れたものかもしれない。求人メディアに「契約書よめます」とは書かない。しかし老人が15分相談に乗ってくれるだけで随分楽になる人はいる。

発掘されていないスキルをきちんと言語化して評価し、マッチングしていくこと。これは求人メディアにおけるメルカリ的な世界観だ。卍という言葉の解説、JKトレンドの今後の行方、あるいは財務諸表のレビューと商慣習の知恵袋。

次の時代に最初に必要なのは会社の再構築でも働き方改革でもなく、求人メディアの再構築だ。「マッチングを通したゴミの価値の再発見」を行える求人メディアが求められる。

成長社会では「ニーズが多様化した」とよく言うにも関わらず、人材評価は類似のフォーマットの上で似たような物差しで測られている。

会社というフォーマットを崩すより、先に求人メディアのフォーマットを崩したほうがいい。先に目標があって手段が明らかになるのではなく、むしろ手段から成果物や目標が生まれてくることは往々にしてある。

「大量の芋をもらってどうしようもないから、おすそ分け」として結果的に仲良くなるのと同じで、企業は「おすそ分けするために芋を買ってこようぜ!」とはならない。おすそ分けという文化を促すときには「芋が有り余っているんだよね…」という状態をつくることが先決なのと同じだ。

僕はたくさんのゴミを持っている。そして老人も、障害者も、口うるさいおばさんも、ゴミを持っている。

発掘されていないスキルを言語化しフォーマットにのせるべきなのは、ゴミを有効活用して社会の能率性と効率性をあげるためというよりむしろ、夢の残り香がみえる腐った"ゴミ"に夢を見出すためだ。

僕たちはメルカリがなくても、本当のところ「このゴミが誰かの役に立つかもしれない」という夢なしには生きていけない。

哀愁漂って腐るゴミを放置するのが近代の労働市場だ。そうしたゴミに、テクノロジー使ってもう一度価値を見出させ、人々に夢を与えるのが令和の労働市場と思う。

たくさんのゴミが溢れ、そこに新しい役割と夢が与えられる社会では、お金は夢占いのようなものになる。

例えば一つのゴミに200万円の値がついたとして、それが恒久的に200万円なんてことはない。需要と供給のバランスでそうなっていただけかもしれないし、なぜか「あなた」というパーソナリティと結びついてそうなったのかもしれない。この不安定さは、無限のバリエーションとグラフィックの中でマッチングが行われる世界観では、どんどん増大してしまう。

お金が夢占いといえるのは、今後の社会では価値の不安定さが無限に発散していくからだ。

お金は、ゴミがもっているかもしれない意味を、曖昧な態度で僕らに囁くに過ぎない。そしてゴミがみた夢の行く先を勝手に占うだけだ。そこに本質的な価値はない。

最初に僕たちができるのは求人メディアの新規事業立ち上げではなく、テンプレート化された求人メディアにNoを突きつけること。そのことは労働の見方をかえ、ひいてはお金の持つ意味を変え、生活のあり方をかえる。

今の求人メディアのフォーマットの偏愛はフォーマットの自己増強化の助長とイコールであり、いずれ自分が捨てられることを必至にする自殺行為だ。場当たり的な同調圧力と思考停止こそが本当はゴミを生む何よりの原因だ。

哀愁を放置しない労働市場は、"ゴミ"に夢を与える市場だ。そうした社会の構築は通信や計算能力の発達によって可能になりつつある。その可能性に気付いて新たな道を模索する一歩を僕たちは常に意識的に踏み出していく必要があるのだろうと思う。

哀愁の未来も労働の未来も、全てはその一歩目から始まるのだ。

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