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評論エッセイのコツ

社会や文化のさまざまなできごとについて、客観的な資料やデータにもとづいて、論理的に考察をくわえ、理路整然と自説を述べる。これを評論と呼ぶとします。

社会や文化のさまざまなできごとについて、思いついたことを、やわらかい文章で自由気ままに書き連ねて、個人的なエピソードなんかも面白おかしく絡めていく。これをエッセイと呼ぶとします。

わたしは、評論とエッセイの中間くらいの文章を書くのが好きです。読むのであれば、どちらかに振り切ったほうが好きなのだけど、書くのは中間がいい。私はそれを「評論エッセイ」と呼んでいます。

来年の刊行に向けて、いまがんばって書いている昭和50年代論も評論エッセイです。これまでに出した『歴史に埋もれたテレビCM』や『失われゆく仕事の図鑑』もみんな、自分では評論エッセイだと思っています。このnoteもそうです。たぶん、大学で話している内容もそう。

そんな評論エッセイ好きとして、それなりに書くコツを心得ているつもりです。おもしろい評論エッセイを書くために、大切な格言はぜんぶで4つあります。

〈格言1〉
調べるだけなら誰でもできる
あとは料理の腕しだい

むかしは、資料へのアクセシビリティが書き手の序列をあるていど決めていたと思います。国会図書館に何日も通って、昔の雑誌をしらみつぶしにチェックできる時間のある人。数百円の電車賃で国会図書館に通えるエリアに住んでいる人。そういう人たちは、それだけで他の人には書けない文章を書ける有利な状況にいました。つまり、貴重な資料を発掘するだけで商売になっていたのです。

もちろん今でもアクセシビリティは重要です。でも、特定の資料にアクセスできる人が絶対的に有利とはいえなくなってきました。

国会図書館は個人送信サービスを始めたし、貴重な資料は全国のマニアたちが惜しげもなくSNSで披露するようになりました。もはや、ふつうの人が見られない資料を見られるというだけで、書き手としてエラそうにできる時代は終わりつつあると感じます。

また、市井の好事家と、研究者などのプロの書き手が同じ土俵に立つ時代です。絶対に勝てない、猛烈に詳しい達人が目の前にいる状況で、たかだかネット上にない資料を発掘してきたくらいでは、たいしたアドバンテージはありません。

いま書き手に求められているのは、面白い資料を持ってくるだけではなく、そこからどんな情報を引き出し、なにを考えるのかという、資料の料理の仕方だと痛感します。

他分野を含む幅広い知識、効果的な切り口、深く鋭い考察などの複合的なスキルが、書き手のクオリティを決める。むかしからそうでしたけど、なおさらそうなってきました。そうであるほど、面白い評論エッセイになるはずです。

〈格言2〉
あるある(共感)
なるほど(教養)
するどい(分析)
うまい(表現)

たとえば昭和のたばこ文化について書くとき、駅の灰皿付近は空気が真っ白でしたよねえ、みたいな思い出話をして、まずは「そうそう、そうだった」という感情を引き出す。これがあるある(共感)。

次に、1970年代の男性の喫煙率は最大で80%を超えてたんです、みたいなデータを出して、「へえ、多いとは思ってたけどそんなにか!」という驚きを引き出す。これがなるほど(教養)。

たばこのCMに女性の喫煙場面がまったく描かれなかったのはなぜか?たばこには男性特有のダンディズムが関わっていて、女性の喫煙は母胎への影響といった問題だけでなく、男の真似をする女は生意気だとする女性差別があって、たとえば池波正太郎は・・・みたいに話を大きくしていって、社会的・文化的背景を明らかにしていく。これがするどい(分析)。

そして、それらを軽妙な言い回しや絶妙な比喩、臨場感あふれる描写を駆使して言葉にしていく。これがうまい(表現)。

ぜんぶそろっていれば読みごたえが生まれます。文章を書き終えたら、この4要素をチェックリストのように使うとよいかもしれません。

〈格言3〉
「思っていたことを言葉にしてくれた」と
「思いもよらないことを言葉にされた」の
バランスが大事

第3要素の「するどい(分析)」については、読者がグッとくるふたつのパターンがあります。

ひとつは、なんとなくそうだろうと思っていたけどうまく言葉にできなかったものを、分かりやすく言語化してもらったときの、溜飲が下がる快感。

もうひとつは、これまでまったく思いつかなかった切り口を教えてもらい、新しい視界がパーッとひらけていく快感。

読者によってどっちのパターンが作動するかはそれぞれなので、狙って書くのは難しいですが、多くの読者にとってこれは前者、これは後者、という想定はしっかり立てておいて、できればひとつの書きものに両方がバランスよく入るように、分析の切り口を複数用意したいです。

〈格言4〉とぎすまされたやわらかさ

第4要素の「うまい(表現)」について、何をもってうまいとするかは難しい問題です。個人的な好みになりますが、なんだか話し言葉みたいに適当に書かれた文章なのに、じつは言葉の抑揚や、てにをは、句読点などに徹底的にこだわり、ミリ単位で調整され尽くしている。わたしは、そんな文章がうまい文章だと思っています。

やわらかさの奥に、とぎすまされた感性が垣間見えるのがエッセイの醍醐味です。評論エッセイにも同じことが言えるでしょう。

以上4つの格言を、いちおう気にしながらわたしは評論エッセイを書いていますが、なかなか、エッセイの達人のようにはいきません。向田邦子とか開高健とか、群ようことか酒井順子とか、あんなふうに書けたらいいなあ、と思うのですが、おのれの未熟さを痛感するばかりです。

まあでも、何かの役には立つかもしれないと思って、わたしのルールを公開してみました。