見出し画像

立ちはだかった岩本貴裕擁する広島商業。それでも絶対甲子園に行けると信じた2004年夏。【前編】

  2004年7月。今から16年前、如水館高校野球部は第86回全国高等学校野球選手権広島大会の決勝を戦い、9-13で惜しくも広島商業に敗戦し3年ぶりの甲子園への切符を掴むことが出来なかった。筆者は当時一年生で、この先輩方は甲子園で必ず旋風を巻き起こすと勝手に思っており、敗退した現実をしばらく理解する事が出来なかった。
  この記事では、筆者の2つ上の世代、甲子園には行けなかったが実力は本物だった三年生、如水館高校野球部第9期生の凄さを伝えていこうと思う。(16年前の出来事ですので、多少思い出補正があるかもしれませんが、そこはご容赦頂ければと思います)

圧倒された入寮初日。

   筆者が一年生として入部したその日、如水館の野球グランドでは春休みという事もあって、ちょうど試合中だった。対戦相手は、広島東洋カープで活躍した横山竜士や天谷宗一郎、齊藤悠葵の母校でもある福井商業。なんと如水館の先発は筆者の先輩が努めていた。少し覗くとその先輩は福井商業に圧倒的なピッチングを展開していた。
  試合を見学していたかったが、入寮の準備もあったので、早々に引上げて寮へと向かった。その寮では与えられたベッドの周りに生活用品等を整理整頓し、それからしばらく待機していた。如水館の寮は仕切などはなく、教室の様な大部屋に二段ベッドを均等に設置しているのみで、プライベートはカーテンを締めた1畳だけ。事前に知ってはいたが、そんな環境に戸惑いながら、初めて顔を合わせた同期達とコソコソ話をしてると、試合が終わった三年生達が寮に帰ってきた。いよいよ始まるのかと息を呑み、背筋を伸ばしてじっとしていると、先輩方は音楽を流しリラックスしたムードで談笑し始めた。話に耳を傾けると、どうやら福井商業に完勝したらしい。そしてなんと筆者の先輩はその時MAX144㌔を計測した様で、俺達絶対甲子園行けるわ!とみんなで盛り上がっていた。
  三年生にとって甲子園という目標は夢の話ではなく、既に視界に捉えたものであり、そしてその目標を豪語するだけの実力も備えていた。筆者はこの会話を聞いて、とんでもない所に来てしまったなと改めて感じた。これが、筆者と三年生との出会いだった。


明確な目標があるからこそ、人はストイックになれる。

  ストイックな人ほど明確な目標を持っていると筆者は考えているが、三年生、特にレギュラークラスの方々は驚くほどストイックに練習をこなしていた。如水館の恵まれた練習環境と最上級生という絶対的なアドバンテージを十分に活かし、全体練習終了後、夜遅くまで守備練習や特打、食事を済ませて再び室内練習場でティーバッティング。彼らが練習を終えるのは大体21:00〜22:00、消灯が23:00だったので学校から戻るとそこからは全ての時間を野球に注いでいた。
  
 一年生は早く全体練習を終えることができ、寮に戻って食事風呂洗濯を済ませ、何かの当番でなければベッドでゆっくりする時間があった。ある日、筆者がベッドでゆっくりしていると、グランドにグラブを持って出てこいと招集がかかった。ジャージのままグランドへ行ってみるとバッティングゲージがセットされており、ボールがたんまり入った箱の横で二年生の先輩が汗だくで筆者を待っていた。筆者は左投げの投手だったので、そこで理解した。あ、打撃投手か…。訳も分からずヘッドギアを装着して三年生二人~三人に対して黙々と投げさせられた。白いTシャツが全てグレーになるほど汗をかき、少しコースが外れると睨みつけられる。これは逃げれない、やりきるしかない。
一時間ほど投げてようやく特打が終了し、今度は四方八方に散らばった無数の球を回収しに歩き回った。
左投げは貴重なのでその後、よく特打に呼ばれるようになった。この時期投げた球は1000球は余裕で超えただろう。終わった時間が遅ければ当然風呂なんかも入れるわけなく、タフな日々が続いたが、不思議と嫌だなという気持ちはなかった。おそらくその二人の特打が真剣そのもので、その殆どは逆方向で右中間左中間に狙って打つ。柵越えなど彼らの力であれば簡単だと思うが、それを一つもせず、完全に欲を捨てた打撃練習だったので、多分投げてる方も気持ちよかったのだと思う。

 もちろん全員がストイックだったわけではないが、それでも皆レベルは高かった。特に、メンバーに漏れた三年生の方々も普通に上手かった。これは持論だが、三年生メンバー外の力量が、そのチームの強さのバロメーターになると考えている。とにかくそんな三年生も含め、如水館の目標はただ一つ。彼らは夏に向けて、充実した日々を過ごしていた。


2004春センバツ優勝校の済美高校に大差で勝利し、内なる自信が確信へ。

 そんな如水館だったが、第9期生による新生チームで挑んだ前年秋の大会、そして2004年春の大会。共に中国大会へ進む事なく、苦汁を舐めていた。公式戦で彼らの力が発揮出来てなかったのだ。既に夏のシード権はなく、世間もこの夏は広陵・広商・高陽東が軸と考えられており、如水館はせいぜい4~5番手程度の評価だった。如水館としても、2001年を最後に3年も遠ざかっているので焦りがあった(今思えば凄い)。そんな世間の評価が夏の大会まで変わることは無かったが、ある試合を機に、内なる自信が確信へと変わる出来事が起こった。それがあの2004年センバツ覇者、済美高校との戦いであった。
 如水館は毎年(今は分からないが)5月に入ると愛媛県にある済美高校へと遠征し、他一校を交えた変則ダブル試合を組んでいた。当時の済美高校といえば、現楽天の福井優也、元ヤクルトの鵜久森淳志、元阪神の高橋勇丞などが所属し、2004春のセンバツ初出場初優勝、夏の甲子園準優勝(田中将大擁する駒大苫小牧に敗戦)を達成することになる、あの名将上甲正典監督率いる伝説的チームだ。
 筆者は当然メンバー入りなど出来ず、三年生が遠征のため激減した寮で二年生と共に居心地の良い生活を送っていた(笑)。すると一報が寮に届き、どうやら勝利したみたいだぞ、という情報が寮内を駆け巡った。そう、如水館はあの福井を打ち崩して大差で完勝したのだ。その時筆者は確信した。「このチームは甲子園で必ず旋風を巻き起こす」と…。


夏将軍と言われた理由。如水館いよいよ運命の夏へ。

 春のセンバツは昔から縁がなく、夏ばかり甲子園へ行く如水館。人々はいつしか夏将軍と呼ぶようになった。何故夏に強いのか。それは偶然ではなく、ちゃんとした理由があるのだ。6月に入ると練習だろうが試合だろうが毎日、ベース間くらいの距離をダッシュで30往復した後、普段のアップに入る。これがキツイ。試合前だとメンバー20人程度で回していくものだから余計キツイ。そして夜の全体練習もかなり遅くなる。その後自主練なので、消灯前まで練習する人がかなり増える。如水館は6月に徹底的に追い込み、体力を削ぎ落とすのだ。6月の寮内はピリピリムードである。シェーカーにキンキンに冷えてやがるカルピス作って室内練習場まで何往復したことか…(笑)
 7月に入ると一転、メンバーは全くと言っていいほど何もしない。激しい練習は一切禁止。練習も試合前の7分ノックと一本バッティング一人3打席程度で終わり。6月に22:00頃までしてた練習が7月になると19:30には寮でテレビを見ている。これを2週間程度、夏の大会まで続ける。この調整法こそが如水館を夏将軍と言わしめた迫田マジックなのだ。科学的根拠は分からないが、これまで積み上げた実績が、この方法が有効であることの証明になるだろう。
 夏へ向けた最終調整を終え、いよいよ待ちわびた夏が始まる。ノーシードのダークホース、如水館高校野球部、いざ出陣。


思ったより長文になりましたので、2つに分けて記事を書こうと思います。岩本貴裕詐欺ですいません(汗)
 後編は第86回全国高等学校野球選手権広島大会での死闘、岩本貴裕選手との決勝戦は勿論、賀茂高校の二年生左腕海田智行投手(現オリックス)との激闘も書きます。

3/29追記
後編書きました。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
もしよろしければ今後のモチベーション向上に繋がるのでいいねやフォローなどして頂ければと思います。Twitterのいいねもよろしくお願い致します。

この記事が参加している募集

#部活の思い出

5,453件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?