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彫刻家舟越桂さんを偲んで 彫り出される生命や主体性について

彫り出される人物の存在感


 2024年3月29日、舟橋桂さんは旅立っていかれました。72歳でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 

舟越さんは岩手県盛岡市で出生し、楠を素材にした木彫作品を数多く創作した芸術家です。木から掘り出された人物の多くは半身像であり、油絵の具で色付けされ、独特の存在感を放っています。日常で出会いそうな人物から、スフィンクスや、山や川などの自然の風景が擬人化された人物も作品になっています。舟越作品の人物たち、彼ら彼女らは崇高な雰囲気を醸し出しています。一方で真逆のようですが、奇妙さや畏怖すら感じる佇まいにも惹き付けられます。その姿は見る者それぞれの想像力を大いに賦活し、目を離せなくさせるのです。
 

舟越作品の一つの魅力は、人物像の「目」にあると私は感じています。彼ら彼女らの多くは空(くう)を見つめ、何か言いたげな、問いかけているような表情をしています。まなざしは何を問いかけているのでしょうか。インタビューの中で舟越さんが「目」について語るのを聴いて、腑に落ちました。舟越さんは外斜視(片方の目が外へずれる状態)の目を好んで作品にしています。その理由として、遠くを見ているような視線がいいと思ったから始めたのだと語っていました。そして創作を続けていくうちに、遠くを見つめるというのは自分を見つめることなのではないかと気づいたそうです。また、番組内では、舟越作品に出会った多くの人たちが、舟越作品からはモデルそのものを越えた、崇高で神聖なるものを感じるのだと語っていました(「日曜美術館 語りかけるまなざし 彫刻家・舟越桂の世界」NHK 2003/特別アンコール 2024)。
 

作品を見ているようで自分を見ている。
遠くを見ているようで自分を見ている。
外を見ているようで内を見ている。
見ているようで見られている。
 

舟越作品の人物からのまなざしは自分の中で行ったり来たりします。そして、作品を見る者それぞれが自分だけの情緒体験に集中する時、自分という主体を確かに感じる体験となっていくのかもしれません。また、作品に見られている自分が、崇高で神聖な大いなるものに包まれているように(認められているように)体験することもあるのではないかと想像しました。
 
 

主体性について


 
私が、舟橋桂さんという人物と舟越さんの作品に強くインスピレーションを受けたのは、16年前の夏の終わりでした。その時、東京都庭園美術館で舟越桂さんの個展が開催されていました(「舟越桂 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」)。同じ時、私は日本心理臨床学会で事例発表をするために、東京へ行く予定がありました。学会発表は久々のことでしたし、事例研究の発表は初めてだったので、かなり緊張していました。自分へのご褒美として、そして発表後の興奮を鎮めるために、学会が終わったら舟越さんの個展を見に行くと決めていました。
 

私が学会で発表したのは、過呼吸発作や不安に悩まされながらも、主体的に生きることの意味を探っていた男性の事例でした。その男性は偉大な父や家業の跡継ぎとして期待される重圧と、家そのものや父母に対する反抗心を抱えていました。数年に渡る面接経過を経て、過呼吸発作に過度に脅かされることは減少し、出現回数自体も減っていきました。不安や葛藤、身体症状をただ取り除くのではなく、それらを抱えつつ生きることに意味を見い出すように変化していきました。そして、不安を抱えつつも、自分の意志を大切にして生きる姿を主体的な生き方であると捉えるようになり、心理面接は終わりを迎えました(『不安や葛藤を抱えられる自己への変容』 山内恵理子 愛知教育大学教育臨床総合センター紀要 2011 / 日本心理臨床学会第26回大会発表 2008)。
 

学会での事例発表はと言うと、四苦八苦しながらフロアやコメンテーターからの質問に答え、意見をいただき、新たな気づきを幾つも得ることができました。そして、ようやく楽しみにしていた舟越さんの個展へ向かいました。個展では、私にとって意味ある偶然を感じることがありました。舟越さんの作品に触れることにより、思いがけず今回の学会で発表したテーマである、父と息子の関係性や主体性についての洞察を深める体験が生じました。

ご存じの方もおられるかもしれませんが、舟越桂さんの父親は石彫の巨匠である舟越保武さんです。偉大な父とは違う素材や表現を模索し、生命を彫り出していく自らのスタイルを見出すまでの舟越さんの苦悩や、真摯に自分に向き合ってきた創作過程を想像しました。奇しくも父と息子の関係性や主体性について、学会で取り上げた事例と舟越さんのライフヒストリーが私の中で紐づくこととなり、作品だけでなく作り手自身のことや創作過程まで、色々と想像しながら展示を巡るという不思議な体験をしました。舟越さん父子と発表事例の父子との関連について、私が気づいたのは発表の後でした。計画立てて起きたことではなく、展示を見ていて偶然にこのような体験をした衝撃と影響は、じわりじわりと私の中で重要なものになっていきました。
 

舟越さんが楠の巨木の中に宿っているものを見つけて、彫り出して、形にしていく創作過程は、心理臨床的にも非常に興味深いものです。その人の持ち味や主体性は、外側から付与されるものというより、その人の内側に宿っているものであり、それを丁寧に見つけて活かしていく関わりが心理療法でもあると思うのです。16年前の夏の終わりに私が体験した不思議な一連の出来事は、舟越さんの表現様式を体現するかのようにも感じられました。学会で発表した一事例の解釈にとどまらず、「主体性とは何か」を考え続けるために重要な視点を、私に授けてくれたような気がしました。
 
 


彫り出される言葉


 
彫刻作品だけでなく、舟越さんが発する言葉も非常に魅力的であることを紹介して、この文章を締めくくりたいと思います。舟越さんは創作メモとして多数の言葉をメモに書き留めています。アトリエにはそのようなメモが多数貼られていたのを何かで見たことがあります。そして、そのメモだけで一冊の本が出版されるくらいに、魅力的な言葉がいくつも書き出されています。

私は私の作品に
独り言を言わせたいのかもしれない

『舟越桂 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画』カタログ p55 編集:東京都庭園美術館 執筆:井関正昭/塩田純一/八巻香澄 2008 

うまくなることで、
安心することは
出来るかもしれない。
しかし、欲すべきは
まだ見ぬ世界なのだ。
何ゆえにうまさを
使うか考えるべきだ。

『舟越桂 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画』カタログ p55 編集:東京都庭園美術館 執筆:井関正昭/塩田純一/八巻香澄 2008  


著書に掲載されている創作メモの写真を見ると、「思いついたからその場にあった紙に書きなぐった」と、思われるような不揃いな紙片ばかりです。まるで楠を削った木片のようでもあります。今彫り出している人物と、そして自分自身との対話のかけらでもあるのでしょう。

人間や創作について記した舟越さんの言葉を引用して文章を閉じることとします。舟越さんと舟越さんが彫り出した人物たちに向けて、感謝の気持ちを込めて書きました。
 


美しい人がいる。
美しく存在している人がいる。
私の記憶の中に美しい人が立ちつづけている。
人間について私が信じつづけたい事を信じさせてくれる人々が
時々私の前に現れる。
人が植えてくれた木のようにきざまれたその人たちの表情は
私の中で生きつづける。
彼らの表情は私を守る守護聖人のように、
あるいは血液の中の抵抗体のように、
雪原のクレバスをあらかじめうめて進む。
守られた私は
人間について信じられる事の現れた人間を造り出していくことで
私自身を勇気づけていく。あるいは許していく……。
その過程、あるいは結果が私の制作ではないだろうか?
 

『彫刻家・舟越桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種という存在』
P52 舟越桂 集英社 2011



参考引用文献
『舟越桂 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画』カタログ 編集:東京都庭園美術館 執筆:井関正昭/塩田純一/八巻香澄 2008
『彫刻家・舟越桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種という存在』 舟越桂 集英社 2011
『不安や葛藤を抱えられる自己への変容』 山内恵理子 愛知教育大学教育臨床総合センター紀要 2011(日本心理臨床学会第26回大会発表 2008)
 
 

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