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隠れた気持ちと見える声


 仲睦まじく、雰囲気の優しい鳥がいた。キラキラした尾羽を持つ鳥…。
 絵画の中の鳥、その絵画から目が離せなくなりました。優しい雰囲気は好き。でも何故でしょう、絵画から受ける印象は優しさというよりは…。
 
「愛、とか?
 なんとなく言葉だけで、目の前で風船がパーンッと弾けたみたいに真っ白になってしまう…。
 僕には無い…そのことが、情けないような、未熟さのようで、少し、悔しい。」
 以前のナマケモノなら、こんなふうに、自分のことを言わなかったかもしれません。でもナマケモノは今迄、たくさんの人の作る物や世界を通じて、その人たちの生き方や考え方を知りました。その人たちにあるように、自分にも在るんだと考える様になりました。
 
 ナマケモノにも誰かと楽しさや日々を分かち合うことへの憧れはあります。
 しかし、自分が疲れた時うまくほかの人と接するのが難しくなります、自分の良くないところが大きく見えて、自分の良い部分さえ隠してしまいます。
 だいぶ以前のナマケモノは自分の意思を伝えると、思ったままを言わないように諭されたり、理由がはっきりしないまま否定される事がよくありました。その度に悲しくてだんだん、自分の周り怖くなったり、自分がおかしな生き物なんだと思い込んで、なるべく悲しい気持ちにならない努力をしました。でもその努力は、いつしかナマケモノから感情という様々な気持ちの在り方を、忘れさせて、無いものと思い込ませてしまいました。
 絵画の前でだんだんと肩を落とししょんぼりしていくナマケモノに、絵画たちは語りかけます。

 カタチや音に囚われなくていいんだよ。
 多くの似た様なカタチを『しあわせ』と呼ぶかもしれないけれど全く同じものなんて、見た事がないよ。
 
 私たちを描いた人は、見せびらかす為に私たちを描いたんじゃない。

 似たカタチ、似た音、その特徴が、例えば愛と呼ばれているかもしれないけれど、彼女もそれを理解したり、目に見えているか…。

 もしかしたら、確認した途端、違った事にガッカリしてしまうこともあるかもしれないよ。

 目の前のことが正しいかどうかも、わからないのだから。
 自分が信じている気持ちを、なんとなく鉛筆や紙に梳かし出しているのかもしれない。

 周りから様々な声が聞こえてくる中、目の前の鳥は堂々と自分の考えを伝えてきました。
 
「私はまず、私をたくさん愛したのよ、食べ物もいただくことも、羽根を綺麗にすることも、私を大切に想ってすることよ。
 それをしていなければ、愛するという行動や意味もわからないまま。
 尚更、誰かと一緒に生きるなんてできないわ。」

「それに、始まりも違うそれぞれの生命の終わりは、いつかなんてわからない、私たちが、お互いに寄り掛かって居たらダメだと思う。
 でも寄り添うことが出来るのは、私と彼、お互いが協力や相談が出来る相手として信じてみて、やっと可能になるのよ。」

  二羽の孔雀の、その羽根が寄り添う姿は、ハートマークに似ていたので…。
 幸せなんだ、相手からも想われて大事にされているふうに、見えたのです。だからナマケモノは無意識に、「羨望や憧れ」を抱いて、それが無い自分にガッカリしたのです。

 でも確かに、絵画を描いた人は、そんなことを意図して描いていません。
 しかし、惹きつけられたのは、ナマケモノにも欲しいと思う「気持ち」があったから。
 
 道は、一人ひとつあって…だから、並んだり、別れたり、遠くに見えたりする。
 愛や幸せは、みんな違うから、僕が決めても決めなくても、僕がそれはこういうものだって、感じたらいいんだ…。
 ナマケモノはその時初めて、愛は自分には無縁と退けていた気持ちに気付いたのです。
 「無いのではなく、知ろうとしなかっただけなのかもしれない、僕にもきっと在るんだ」

 梟さんは以前言いました。あなたはこれから知るんですね、と。

 ネズミの読んでいた本も、きっとそんなに難しい内容ではありません。
 昨日と今日、さらに明日は別の世界、新しい世界。気候が変わってしまえば、場所が違えば、生き物もみんな違ってきます。生命の始まりも終わりも様々に。
 物語は、自分の成長や気付きに合った時に、その中の言葉も内容も自分にピッタリ合うのです。
 時代や価値観が違っても。
 

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