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自担はおとぎばなしのような人だった

2/25

この数字を見て震え上がるのは同担の同じタイプのめんどくさいヲタクだと、私は思っている。



1月25日。自担の誕生日を初めて社会人として迎えた私は、精神的余裕が全くなくて一年前のように祝えることもなく、長文のブログを書くこともなく、ただ仕事の資料に日付を書くたびに心の中で「お誕生日おめでとう」と唱えることしかできなかった。
この人以外の誕生日には正直「日付を書くたびにおめでとうと心の中で唱える」ほど気にしていなかった。やはり自担の誕生日となると数字だけで反応してしまうものなのであろう。


だが、もう一つ反応してしまう日付があった。
それが2月25日である。

何の日か、なんて普通の人にはわからない。なんなら、同じグループが好きでも私と同担の方以外はあんまりわからないかもしれない。

だが、私は自担が結婚した日はそこまで覚えていないけれど(会社を休んだ日から逆算しないと思い出せない)、この日付だけははっきりと覚えている。



なぜなら、2月25日は、私が夢から覚めた日だからだ。


(以下、超めんどくさいヲタクの戯言が続くので不快なこともあるかもしれません。ですが誰のことも悪く言っていません。よろしくお願いします。)
(自担のことはめちゃくちゃに大好きです。今までもこれからもずっとこの世で1番大好きです。)



「同じ夢を見よう」
嵐ファン各位、散々この言葉を聞いたし目にしたと思う。
この言葉に嘘はない。一点の曇りもない。私も文字通りの意味で受け取り続けた。同じ夢を見続けた。今もずっと、これからもずっと、私と嵐、私と自担は同じ夢を見続ける。




だが、2017年2月25日以前に私が見ていた夢はもうこの世のどこにもない。
いや、別に夢から覚めたからなんだという話ではある。覚めない方が良かったとも、覚めて良かったとも思わないから、さっさと忘れたらいいのに。なぜだか全く忘れられない。
それどころか脳内にこびりついて離れない。そんな私の中で居座り続ける呪いにも似たあの日のことについて書きたいと思う。


まず、初めに言うと、許してないとかそういうわけではない。
簡潔に言うと、自担が週刊誌にすっぱ抜かれて私の中の自担に対する何かが崩れ去ったのだ。

___ 私を苦しめる要因は間違いなく櫻井くんだ。今まであんなに楽しかったヲタク活動の全てをぶち壊したのは間違いなく私が1番大好きな櫻井翔くんだ。2/25、週刊誌にすっぱ抜かれた櫻井くんは私の知る櫻井くんじゃなかった。いっそのこともっとクズでいて欲しかった。私の好きな櫻井くんはどこに行ったんだろうと思った。でもそれでも櫻井くんを嫌いになることはできない。理由は全然わからない。できるなら嫌いになりたい。あっさり諦められるなら諦めたい。もう楽になりたい。櫻井くんは私に夢を見せてくれないし、それは嵐というグループも同様だ。櫻井くんも嵐も応援していれば幸せにはなる、笑顔にもなれる。でもすぐに不安になる。夢を見る暇は与えてくれない。(原文ママ)


全く傷が癒えないまま大学1年生になった私が5月頃に書いたどこにも公開していない担降りブログみたいな殴り書きのメモだ。
(今まで名前出さないようにしてたのに原文ママで載せたせいで名前出てしまってるがなオイ)
(あと私、自担のこと普通に「下の名前+くん」で呼ぶんですけどなぜこの文面では名字呼びなのか謎)

当時の私は、おそらくヲタクになってからほとんど初めてとも言える「自担の熱愛報道」に戸惑いを隠せなかったのだと思う。
本当は、それより前にとある女優さんと報道が出たこともあるが、本人たちが番組で共演して否定し(本当でも嘘でもすごい対応だなと今となっては思う)、否定していなくてもなんだかふわっとした報道だった(気がする)のでその件はそこまで気にもとめていなかった。

噂には聞いていたが、自担の熱愛報道はいろんなものを狂わせる。しかも私の自担はツーショットを撮られるとか週刊誌に載るとかそういう熱愛報道がそれまでほとんどなかったから、余計にとち狂ってしまった。
たしかに2/25以前は「櫻井担は自担が熱愛を出さないから熱愛に対する免疫がほとんどない」とか言われていたなあと思った。今や既婚者担なので、もうそういう類の報道で頭を抱えることがなくなって逆に安心しているなんて、その時は考えもしなかった。

___ 私は櫻井くんのすることなすことはなんでも正しいと思っていた。正直、今も思っている。キャスターとしてニュースを報道する姿、長い長い音楽番組の締めの言葉を時間ぴったりに収める姿は、かっこよくてさすがだなと思うし、料理下手で不器用で運に見放されてるところは可愛いなと思うし、フィルターがかかっているからなんでも可愛いの一言で済ませてしまう。
フィルターが外れることは多分ない。私が櫻井くんを嫌いになってしまうことも多分ない。櫻井くんがもし結婚したとしても別に嫌いにはならないと思う。でも、応援するたびに不安になる。怖くなる。私が櫻井くんを嫌いになることはないのと同じように、このままでは私が純粋に櫻井くんを、そして嵐を応援していたあの楽しい日々はもういくら応援しても来ない。
そして、私は勝手に夢から覚めたんだな、とふと思った。(原文ママ)


そう、私は「勝手に」夢を見て「勝手に」夢から覚めた。自分が勝手にやったことなのにグダグダ言うなよ、という感じであるが、ここで言っている「夢」はもう見ていない。
ずっと言っているこの覚めてしまった夢とは、自担をガッチガチの理想と「アイドルはこうである」という自分の謎理論で自担を縛り上げて作られていたものである。ただ、2/25以前の自担はこの針の穴よりも狭そうな私のガチガチの理想にしっかり糸を通していたんだからめちゃくちゃにすごいなと思う。

糸が通らなくなったのなら、私がもっと大きな針穴を用意すればいいだけである。
と言えたらいいのだが、私の針穴、いえばストライクゾーンはめちゃくちゃに狭いと思う。そりゃあ2/25以前に比べれば広くはなったと思うが、広げざるを得ないようなことが起きてもその後に自担が「いや狭くても僕は必ず真ん中に投げますよ」みたいな姿勢でくるので、なんだあ〜広げなくてもいいじゃんと寝そべって未だに理想像で固めた自担を夢見ている節は否めない。そして私の自担は期待通り、いやむしろそれを超えて必ず真ん中に投げてくる。だから私も甘えてしまう。

私は物分かりのいいヲタクではない。自担の野望や願いを全て素直に受け入れられるかと言われればそうではない。その野望や願いを応援することによって自分も幸せになるのであれば何も思わないが、そうでない場合だって少なからずある。
結婚したのだって、反対ではないしちゃんと心から祝えてはいるけれど「しなくてもいいのであればしてほしくない」という気持ちは変わらずにある。未婚であることにものすごく価値があるかと言われればあんまり分からないし受け取る人によるけれど、「どの方面から見ても誰のものでもない」ことは夢を見せるのが仕事であるアイドルにとって、見せられる夢の幅が広がるという点で大きな長所にはなると思う。

当時の私は、確かにああいう類の報道に対する免疫がなかっただけかもしれない。だがそれ以上に自担が完璧すぎるあまり「アイドルとはこうだ」「自担はこういう人だ」という本来は個人的な意見や思想であるはずのものを正解であるかのように思ってしまっていた。
私みたいなヲタクは解釈違いという現象に陥ることがある。ヲタク同士で起こるくらいであればそこまで何も思わないが、私はそれを公式との間で起こしてしまったのだから厄介である。
正解は明らかに本人の方なのに、自分が勝手に作り上げた無理にも程がある理想像を信じて疑わない私は「勝手に夢から覚めた」「自担はおとぎばなしなんかじゃない」とか言って今の今まで、いやもうこれからもずっと引きずってしまうことになる。


アイドルとして何が正解なんかなんてヲタクの分際でわかるわけがない。どのスキルが1番必要かなんてそんなのファンよると思う。かくいう私がアイドルを自担として好きになる基準は、第一に顔、次にキャラクター、そして誠実さである。歌やダンスがそんなにできなくても別にいい。なんでも程々にできて、アイドルとして人間として完全無欠な人を推す傾向にある、と思う。

そんな私は、自担の話をするたびに「理想高い」「王道が好きなんだね」「ああいう人が1番周りにいない」と言われてきた。褒め言葉すぎる。私が現実を見ていないアホと思われているのはさて置き、自担が世間的に見ても素晴らしい人なんだなというのを実感する。

そんな自担だからバカでかい期待や理想像を押し付けてしまうのかな、と思った。
2/25以降、特に私が自担に対して解釈違いを起こすことも、理想が崩れ去ることも特になく、自担は私のストライクゾーンど真ん中にど直球で豪速球を投げてくる。


ただ、自担はもうおとぎばなしではなくなった。それがアイドルとして間違いなのかはわからない。
しかしながら、自担が結婚した日はあんまり覚えていないのに(体調死んだ日から計算したら分かる)、この2/25だけ脳裏にこびりついて離れないのは、私の中で自担というおとぎばなしが終わったからなのだ。

2/25以降の対応、それ以降にも週刊誌に載ったことがあるがその後の対応も、結婚後の対応も、特に幻滅するようなことは起こっていない、と思う。
だから今も、私の中で自担はアイドルであり続けてくれている。
じゃあいいやん、という話ではあるが、なんだかいつまで経っても2/25という日付を忘れられない私はこうやってグダグダと文字に起こしてみた。

私は自担のことが今も昔も変わらずめちゃくちゃに好きである。
おとぎばなしでなくなったかもしれない。私が勝手に押し付けていた堅苦しい理想とは少し違ったかもしれない。だが、私の自担は私が押し付ける完全無欠なアイドルという理想像に限りなく近い位置にいてくれている。
私にとってはそんなアイドル、他にいない。推すしかない。推さざるを得ない。推すことをやめるなんてできない。


一度勝手に夢から覚めた私であるが、そんな自分勝手すぎる私にも手を差し伸べてくれる。自担は優しい。優しすぎてもっと私は身勝手になってしまう。一度夢から覚めたとか言っておきながら、また勝手に理想像を押し付けようとしてしまう。


アイドルにとって恋愛することが悪いことなのか、といえば正直わからない。もちろん恋愛するなら隠すべきではあるし、そもそも「疑似恋愛的な夢を見させる」という面において、相手がいないのは大きなメリットであるが、だからといって全くそういう経験がなければ、ファンに疑似恋愛的な夢を見させることはできないだろうし、ファンが一目惚れしてしまうほどの表情を作り出すのも難しいと思う。
何が正しいか、などという答えはない。自分が自担に夢見れさえすればいいのだ。夢から覚めてもまた夢を見ればいい。おとぎばなしみたいに完璧な夢でなくても、自担に幸せにしてもらっているのであればそれ以上のことはない。


これまで長々と書いたが、結局私は2/25を境に少し大人になったのだと思う。
今までどれだけ夢見ても1ミリも崩れることがなかった自担に甘えた私は、2/25で自分が思い描いていた姿と少し違う自担の姿をみて驚いてしまっただけだ。勝手におとぎばなしにして勝手におとぎばなしではなくなったとか言って、本当にめんどくさいヲタクだと思う。
だが、そんな私を見捨てることのない自担は本当にできた人だ。


___ 勝手に人生を借りて全部責任をなすりつけて、勝手に泣いて怒って、夢から覚めてしまっても優しい顔をしてくれる櫻井翔くん、本当にありがとう、これからもずっとこの世で1番大好きです。(原文ママ)


あの時に殴り書きした担降りブログみたいなメモにもこう書いていた。1番辛い時、最終的にいきつくのはいつも自担だ。誰にも何にも彼の代わりは務まらない。


結局、この記事で私が言いたかったことは、自担のことは何にも変わらずに大好きだということである。
2/25で夢から覚めたとか言ったとて、今はあの頃と違う夢を見ているだけであるし、2/25がなければ自担の結婚もちょっと体調を崩しただけではおさまらなかったと思う。そう考えるとあってよかったのかもしれない。

自担の方が私より何歩も先に居て、何年も先に大人になってしまうけれど、その距離が縮まらないとしても同じ歩幅で歩いて私も大人になっていければいいな。


ここまで長ったらしい文章を読んでくださった皆様、ありがとうございます。
私はグループとしての活動もないし自担は結婚したのでもうあまりヲタクごとで頭を悩ませることはないかもしれませんが、正直悩んでいるうちが華です。この記事を書いていてそんな時もあったなと懐かしい気持ちになりました。

自Gが活動している皆様、ヲタクをめいいっぱい楽しんで!
同G担の皆様、いつかもう一度ステージで彼らを観られる日が来ることを願って一緒に日々耐えていきましょう、、!


ありがとうございました!

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