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これからの時代を楽しみリードするコハクルライフ構想について

心の二律背反とは

MBTIの思想前提は「心の二律背反」です。陸と海、昼と夜、というように自然界は二律背反で成り立っている、であるならば、物事の知覚の仕方や結論の出し方といった心の働きも二律背反になっていて、人はそのどちらか一方を無意識に選択しているはずだ、とユングは考えた訳ですね。

(MBTIの概要はこちら)

鉛筆を渡されたら右手で受け取り、右手で描き始めるのは、あなたが左手でなく右手という二律背反を無意識に選択してるから。同様に真後ろから声かけられたときに振り返る方が利き耳であり、片目ずつ焦点をあわせたときに常に焦点がズレない方が利き目です。

そう考えると、私たちは多くの無意識な選択をしており、ソースまで追いかけてないですが「人間は1日に3万回以上の選択をしている」みたいなやつも、多分、無意識を含めたら、ということだと思います。

二律背反はあくまで「同時には」存在しないというだけ

MBTIの概要でも書きましたが、例えば物事を知覚するときに「感覚(Sensing)」によるか「直観(Intuition)」によるかは、同時には行えないというだけで、誰しもがどちらも使って生きています。あくまで、反射的に、無意識的に使う利き手が人によって異なるというだけです。

元来の左利きに天才や成功者が多いというのも、右利きを前提にした社会で1日3万回超の意思決定をするという状況下で、何度も何度も自分にとっての「じゃない方」の機能を意図的に駆使しなければならないから、必然的に多面的な物事の知覚や判断の仕方を人より多く学んできた結果、なのだと解釈できます。

優秀な経営者というのもまた、経営という多様な局面において「じゃない方」の立場を何度も何度もとらなければならない結果として、必然的に多面的な物事の知覚や判断の仕方を人より多く(以下略)、という具合です。

親が成長するというのもまた、自分でない知覚や判断をする子供の事を理解していく過程のことを指しているのかもしれません。

あるいは、一つのスキルや専門性に特化させる生き方ならば、そんなことは考えずに「己の主機能に一点張り!」というのもいいでしょう。適合する居場所を見つけられれば、これほどストレスの少ない人生はないと思います。

二律背反を理解し、狭間を愛でる

さて、ここからが説明が難しいんですが、二律背反が「同じ瞬間においては並存しないだけ」であるならば、逆に言えば、時間を切り刻んでいけば、「どちらでもあるし、どちらでもない」みたいなことになってきます。マスゲームを至近距離で見るか遠目から見るか、みたいな。

例えば陸と海も概念としては二律背反ですが、干ばつ時には海だった場所が陸になったりして、その境界線ってとても曖昧なものです。

昼と夜はもっと複雑ですね。日本には夜明け時を指す言葉が大量に存在しています。あかとき、引明け、暁暗、暁闇、暁鶏、暁紅、朝明、天明、晨明…。同様に、日暮れ時を指す言葉も入相、薄暮、夕闇、夕景、宵の口、逢魔時…とキリがありません。

演歌も西洋の音階では表現できない、という話を耳にしたことがありますが、日本というのは、二律背反という概念への学びが非常に弱い民族という言い方もできれば、言い表せない「狭間への美」への圧倒的センスを持った民族という言い方もできそうです。

MBTIの統計でも、「判断の仕方」という二律背反において米国のスタンダード(多数派)がT型(思考型)であるのに対し、日本ではF形(感情型)であるとされています。国民性としても、二律背反を定義すること自体よりも、カテゴライズできない価値観の違いを感じ取ることを優先する民族なんだな、というのが納得できてきます。ドレミファソ~ではなく、ドとレの間を、レとミの間を、こぶしをあげながら昇っていくのが演歌ということですね。

で、何が言いたいかというと、日本人として生まれた我々だからこそできる可能性として、MBTIのような二律背反の概念を(残念ながら日本の学校教育では教えてくれないので)大人になってからでもいいので正しく理解し、その上で遺伝子レベルで引き継いだ演歌的思考(造語です)を、あるいは昼と夜の間をあらゆる表現で愛でてきた無境界線的(造語です)な思想を、「二律背反を理解したその先」として理解し直すことで、真の多様性という境地に、あるいはどの民族よりも早く到達できるのではないかと考えています。

コハクル構想について

だいぶ前置きが長くなってしまいました。私はそれを色でイメージしたときに「琥珀色 (Amber) 」がふと浮かびました。昼と夜の間の色ですね。

白と黒に染められて灰色になるでもなく、琥珀色は二律背反の「狭間」に存在しています。太陽の下でも、暗闇の中でも、それは消えるでもなく、主張しすぎるでもなく、普遍的な立ち位置です。

時代の過渡期として、いまは新しいネットワーク上の分断の時代であるという話をしました。

この分断はまだまだ世界で拡がっていくと思いますが、私たちがこの「時代のうねり」を乗り越えて次なる時代へ移行するためには、分断を生み出している二律背反の本質をひとつずつ暴き、それぞれを理解し、その上で、「狭間の美」を愛でていくことが重要だと、少なくともそういう役割を担う者が必要だと、私は考えています。

占星術では2千年の時を経て、うお座の時代からみずがめ座の時代へ移行するタイミングであるとされています。占星術も辿れば統計学であり自己認知手法なので、解釈の一つとして参照することは問題ないと思っています。みずがめ座の時代は、女性的な時代とも言われ、これまでの2千年間の男性的な時代、すなわち宗教という手段からはじまる権力、武力、金融、所有といったものから、価値観や本質、愛の時代へ移行するという感じのようです。

占星術に言われなくたって、そうなることは論理的に想像がつきますね。寧ろ2千年後にそうなることを予想した過去の占星術師、さすがっすという感じです。

そしてそれは東洋的思想だとも解釈されており、アジアの時代、そして日本にフォーカスが当たるという予想もされてますが、私としては、日本にフォーカスが当たる理由こそ、まさに先述した「狭間の美」を世界が理解したいと思うようになるからだろうと考えております。これは私の完全オリジナルな予想です。

逆に言うと、そこを避けてしまった世界線ルートでは、日本にフォーカスが当たることなく過ぎ去っていく気がします。。

ただ単に「演歌」に「わびさび」に「おもてなし」に囚われていればいいということではありません。進化するということは、新しいものを取り入れていくいうこと。ただしそのときに先人が築いた歴史の「根源にあるもの」を忘れずにいるということ。

だから、琥珀色であるといっても、一定地点に凝り固まるということはなく、どんな時代においてもその時代ごとの「狭間」の座標軸<ポイント>を見極め、時代の風に合わせてクルクル回転し続ける、そういう生き方・働き方こそが、次なる2千年間の夜明けを照らすと、私は確信しています。

これが私のコハクル構想、またはコハクルライフ構想です。

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