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つらい思いまでしてSNSで意見が違う人のポストを追う必要があるのか

最近そういったことを思うようになりました。
エコーチェンバーに陥らないように、様々な意見を取り入れることができるように、自分と違う意見も知ったほうがいいという考えがあります。

これ自体は賛成です。

自分の周りにイエスマンしかおらず、集団を組み、自分の考えがこの世の中のすべてと勘違いした人を見るのは悲惨です。

ただ、最近のSNSの意見を見る必要があるのかどうか、それが疑問なわけです。

確かに、自分と異なる意見に触れることは、視野を広げ、偏見を避けるために不可欠だと思います。

ただ、心理的な負担が伴います。
特に、SNS上での議論は、かつてないほどに攻撃的な態度で行われるようになりました。人々は匿名性の壁の後ろから、他人を罵倒したり、一方的な意見を押し付けたりすることが増えています。
私の観測範囲だけですが10年前よりも間違いなく、そして近年はさらに増しているような気がします。

本来ならば建設的であるべき議論や楽しいコミュニケーションの場が、ただの罵り合いになってしまっています。
昔は2ちゃんねるの専門版で行われていたいたような、本来であれば蓋をしながら、世間に触れないような場所で行うべき便所の落書きがXには大量に散見されます。

そのため、自分自身を守るための境界線を引くことが大切だと思い始めてきました。
こんな便所の落書きで見たらメンタルが削られるような場所で、対立意見の情報収集する必要があるのか、と。
必ずしも異なる意見を完全に避けるということではなく、むしろ、どの情報を受け入れ、どのように反応するかを自分自身でコントロールすることにつながるような気すらします。
例えば議論が建設的ではなく、単なる個人攻撃になっている場合、その会話から離れるべきです。

そして、最近は(今までどちらかというと否定してきた)新聞が今更ながらいいものなのではないか?という気すらしてきました。
ネットの記事ですとすぐにPVを稼ぐために過激な表現になります。多少は必要でしょうが、揚げ足取りのような記事も目立ちます。
それと比較して、新聞は直接的なPVがすぐには反映されないからか、出版されるまでのワークフローが異なるためか、だいぶマイルドな印象があります。

自分自身の精神衛生を第一に考え、それを守りながら情報を取り入れる方法を見つけなければなりません。
異なる意見に触れることは成長につながりますが、それが自己破壊につながっては意味がありません。
バランスを見つけることが、今日のデジタル社会におけるポイントの一つかもしれないな、そして、意外と新聞はその選択肢なのではないかと思った次第です。

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