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ネットでは最近批判が多くなっているように思います。

ネットでは最近批判が多くなっているように思います。
ただし、議論とは到底言えないような、「○○はありえない!」といった本当に稚拙なものです。

○○には様々なものが入ります。
根強いのは「政治」でしょうか。与党批判はいつの時代もずっと行われています。

「生成AI」も最近は多いです。生成AIを使うなんてありえない!といったものはこの2年くらいずっとホットですね。

最近Xperiaの製品発表で「Xperiaはありえない!(他の機種)を購入する!」といった「え?ではなんであなたはこの製品発表会を見に来ているの?そしてわざわざなぜそのコメントをしたの?」というものもありました。

この○○に入るものは本質的にはなんでも良いのでしょう。
なぜなら、「浅いいいね」を満たすためにやっていることだからです。

人間は他人に自分を知ってほしい生き物だと思っています。
私のこのnoteもそういった類のものでしょう。
これはどこに行ってもあります。会社で先輩が「俺の昔は~」と語るのも自分のことをもっと知ってほしいからでしょう。
喫茶店での会話を聞いていると人の話を聞くよりも「自分の話」をしている人の方が多いことにも気づくと思います。
「○○だったんだよね」「えー、すごい。私も~~~」とたいていの場合「私も~~~」と私のことが続くことが多いです。

自分の存在意義を示すためには他人に共感して知ってもらうということは必要です。
社会性な人間である以上、そうせざるを得ないと言ってもいいような呪いの様なものです。

現代は自分を知ってもらうためのツールが増えました。
古くはブログや掲示板、SNSに代わり、写真、動画、音楽、様々な方法で自分を知ってもらうための手段ができました。
ネットが普及する前はこういった自分の考えを知ってもらうためには、雑誌に掲載してもらったり、新聞に載ったりと、それなりにハードルが高かったと思います。
それこそテレビしかない時代に動画コンテンツなんて信じられなかったでしょう。

手段は増えましたが、余剰時間が増えていない以上、必ず何かが減ります。
その代わりリアルでの付き合いは減りました。
今までご近所づきあいとして井戸端会議をしていた時間はスマホに吸われています。
統計を確認したわけではないですが、自治会の活動やこども会のお祭りといった地域のイベントごとは減っているのではないでしょうか。
また、こういったものはコロナのタイミングでより顕著に減ったように思います。

ここで重要なのが、「自分を知ってもらうためのツール・手段が増えた」のであって、「知ってもらえるようになった」というわけではないということです。

ツール・手段で自分の考えを知ってもらうのはそれなりに高いハードルがあります。
気合を入れて作成したYouTubeの動画が全然再生されない。
気合を入れて作成した音楽が動画が全然再生されない。
1年かけて必死に作成した小説が全然読まれない。
イラストを描いても、アプリを作っても、良いことを言っても何もリアクションが無い。

こんなことは珍しくもないありふれたことです。

例えばYouTuberとして頑張ろうとチャンネルを作り、気合を入れて毎日動画を投稿しているのに10~50再生くらいしかされない。チャンネル登録者も20人くらい。
50再生というと学校のクラス2クラス弱くらい。その人数が見てくれて、1クラス分くらいの友人がチャンネル登録してくれているわけですから、本来であればすごいことです。

ただ、こういったプラットフォームの特性上、どうしてもHIKAKINさんがチャンネル登録者1600万人行って、有名VTuberが200万人記念!とかしている中、自分のチャンネル登録者数は20人。世界に知ってもらうことができていないと思ってしまうでしょう。

他の媒体でも同様です。
手段は増えました。しかし多くの場合、知ってもらうことはできません。
そしてリアルのコミュニケーションは減っていっています。

いろいろ試行錯誤して、他人から「いいね」や「わかります」と言ってもらう簡単な手段が「○○はありえない!」という批判なのだと思いました。
批判は誰にでもできます。その対象を知らなくても批判はできます。
そして、批判をすると「いいね」は集まってきます。
今だと森川ジョージ先生のコメントにかみついたり、スペースに乱入して批判するのが効率が良いのですかね?
あとフェミニスト関連とかは根強い人気ですね。
「この女性の胸がおおきい!女性を性的搾取している!」と書けばいいねは集まりそうです。

そうすると20いいねくらいは簡単に集めることができます。場合によっては100とか200とか集まりますかね。
例えばイラストを描いてXに投稿して100いいねを集めるのは相当大変です。

100いいね、バズるには程遠い数字ではありますが、1日でいいねが集中することを考えると24時間で100回、1時間あたり4回スマホに「あなたのポストがいいねされました」と通知が来ます。
「世界に知ってもらえてる!」と勘違いするには十分かと思います。

人間安きに流れます。
イラストや時折流れてくる本当におもしろいポストなど、何かを生み出すことができればいいですが、多くの人間はそんな努力も才能も有りません。
絵を描く練習をしている間に批判をするだけで「100いいね」が稼げるのだからそういったことにハマる人がいるのもわかります。

そして、さらに批判している間は「自分の方が優れている」と感じる人もいるみたいです。
普段レビューや議論をする機会がない方なのかもしれませんね。
そうすると、「○○に批判して俺は○○よりも上だ。さらにこんなにいいねをしてくれている人がいる。私は世間に認められている」と脳が勘違いするのかと思います。
以前も書きましたが、小学生のピンポンダッシュ的な快楽もあるのかもしれません。

一部の本当に将来を考えている人を除いて、SNSで生成AIを批判している方は、特にAIにも興味はないし、絵も描いたこともないし、生成AIを使ったことすらないけど、「いいね」がもらえるから「生成AI批判をしている」という方が多いです。
こういった方のアカウントを見に行くと、本当に多種多様なことについて批判していることが多いです。

そもそもちゃんと将来を考えている方であればSNSで批判していないで動いているでしょう。
SNSに張り付いて文句を言っている暇はないですから。

SNS上で批判を繰り返す方は本当に大変だと思います。
何か自分で生み出す能力もなく、何か他人に質問されることも頼られることもなく、気づけば現実社会とのつながりもどんどんと薄くなり、「あれ?自分っていなくてもいいのでは?」という思考に押しつぶされながら、必死に自分の考えでもない誰かが言った内容をコピペして批判を繰り返して、それでたいして価値もないいいねを集める。

なんでこんなことしてるんだろう?
なんでこんな見当違いのことを言っているのだろう?
なんでこういった場所でこういったことを言うのだろう?

と考えてみましたが、そもそも「なんで」が「浅い承認欲求を満たすための唯一の手段」だったのだとしたら、割と腑に落ちました。

また、それと同様に、ネット上の批判については、批判したくて批判する人は少なく、他人からの「いいね」をもらうための批判なのかなと理解しました。

人がどういった目的で生きるかはその人次第なので口出しをするようなことではないと思います。
一生をかけてどうでもいいことに対して批判をして、「浅いいいね」をもらうために生きる人生でもそれが楽しいのであればいいのかなと思います。

ただ、他人に批判すると、批判されたほうはまじめに受け取ってしまうので、他人に迷惑をかけるのは個人的には受け入れがたいですが、これも多様化なのでしょう。
何も生み出すことも、何もしたいことも、必要とされることも無い人が、他人の足を引っ張るだけで浅い承認欲求を満たして終わる人生もその人が幸せならいいのかと思います。

ただ、ネット上の批判の99%は聞く必要が無いと改めて理解しました。
まじめに取り合うだけ損だと思います。そもそも批判したくて批判している人が少ないんですから。

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