「子供は母親の所有物」という思想

部屋を整理していたら、裁判傍聴をしていた頃のメモノートが出てきたので懐かしくなって読んでみた。その中に、母親が二人の子供とともに心中を図ろうとした事件の裁判メモがあった。

メモによると、夫の両親と同居している妻が、家庭内で疎外感を抱き、自殺願望から子供を道連れにしようとした事件のようだ。

主な原因は嫁姑問題で、加えて夫の無関心もあった。孫のしつけに厳しい姑の元に我が子を残すことを危惧して心中を図ったが、失敗。子供の心身に深い傷を負わせたというもの。

長男(8才)の首をえぐるように切り、次男(5才)の胸を刺した、とメモにはある。長男は「やめて! やめて!」と叫んで抵抗したそうだ。

事件後、一命をとりとめた子供たちは「ママと一緒に住みたくない」と話しているが(当然である)、母親は「出所したら学習塾に通わせたい」などと供述しており、自分が命を奪いかけた子供が、今後も一緒に暮らしてくれるものだと思っているらしい。

殺すつもりで刺したにも関わらず、母親である自分の親権が揺らぐことはないと信じているようだ。

本人の自認はどうあれ、客観的には、我が子を生かすも殺すも自由にできると思っている異常者である。この歪んだ特権意識の生まれる背景こそ、「子供は母親の所有物」という思想にほかならない。

量刑は、懲役3年6か月から拘置所に入っていた330日を引いた期間。メモを付けた日付から逆算すると、とうの昔に出所していることになる。

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日本の児童虐待統計を見ればすぐにわかるが、両親による子の殺害は実母によるものがいつの時代でももっとも多い。これは疑いようのない事実である。

しかし、こうした実態がありながら、テレビやSNSなどでセンセーショナルに語られるのは父親や、シングルマザーの交際男性による虐待や殺害であり、実数と報道量が釣り合っているとはいえない。

また、母親が加害者となった事件では、加害するに至った背景を丁寧に解きほぐし、あたかも被害者かのように報道されるのも特徴的だ。

実際の事件報道のみならず、児童虐待について考えるタイプの番組作りでもこの種の逆転現象は起きていて、たとえば、NHKの人気番組『ねほりんぱほりん』の〈わが子を虐待した人〉の回でも、虐待親として紹介されたのは父親だけだった。

日本社会は、どう好意的に解釈しても、母親(女性)による子殺しよりも、父親(男性)による子殺しに、より強い衝撃を受け、憤る社会であると言える。

子供が犠牲になるという点では、加害者の性別によって反応を変えることになんら合理性はなく、統計的には母親が加害者になる例が多いにも関わらず、このような社会になっている。その背景には、「所有者」たる母親による加害は、それ以外の者に比べて問題ではないという意識が存在するからだろう。

母親による我が子への加害行為を免責する考えは日本において顕著に目立つようで、過去には、そうした日本の特異性を裏付ける事件もあり海外で衝撃を与えたようだ。

  

さらに、最近Twitterなどを見ていて気になるのは、孤立出産の末、産まれたばかりの子供を殺したり、遺棄した母親に対して、ものすごい数の同情が集まる現象である。この現象は、母親に同情すると同時に、孕ませた男はどこ行った? と責める声がセットになっているのが特徴で、ほとんど「男が殺したんだろ!」と言わんばかりの勢いがある。

虐待による子殺し・心中をおこなうのは母親の方が多いし、嬰児殺しも女の専売特許だが、それはそれとして「加害者」は常に男であるという、男からすれば噴飯ものの、被害者意識の強い女たちの叫びが世にこだましている。本当の被害者である殺された子供たちの声なき声をかき消すように。

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母親の子殺しに対する寛容な空気に加え、「子供は母親の所有物」という思想が顕著に表れているのが、EUなど国際社会からも強く非難されている、離婚した母親による実子の連れ去りであり、それを可能にする、不当なまでに強すぎる親権だろう。

これは「子供は母親の所有物」という思想を法的に後押ししていると言ってもよく、このような日本の国柄と、いわゆる「女性の社会進出の遅れ」は無関係ではない。

「子供は母親の所有物」という思想を容認するのであれば、母親が育児すべきという規範が強くなるのは当然だし、そうなれば、結婚して育児に専念しがちな女性ではなく、男性を企業が優先的に採用したがるのもまた当然である。

「だって女は子供を自分の所有物だと思ってるわけで、離婚したら連れ去るし、なんなら殺す権利すらあると思ってるんだろ? だったら世話するくらい当然では?」と言われても仕方がない。

愛知県一宮市の子供三人を殺した事件などでもそうだったが、母親の子殺しに異常な数の同情が集まったり、共同親権を否定する日本社会の現状が、そうした反応をもたらすメッセージになっているのである。こんなメッセージを送りながら、他方で「女性の社会進出」などと言っているのだからあきれてしまう。なぜその矛盾に気付かないのだろうか。

「子供は母親の所有物」という思想を維持したまま、父親にはより育児参加を求めるといった「良いとこ取り」を目指す。

このような、女に都合のいい思考にあきれ果てた男たちは、女にはそもそもトレードオフという概念がないと諦観しつつあるように見える。

男の育児参加および女の社会進出を進めたいなら、母親の子供に対する所有権を緩めるほかないわけだが、出産の大変さをことさらに喧伝してその価値を吊り上げようとしたり、共同親権には断固反対するなど、「子供は母親の所有物」という思想をむしろ強化しようとしている流れすらある。

日本人特有の心性に従い、「子供の所有権は母親にある」とするのであれば、それに沿った社会設計にするしかない。母子一体型社会を基本としつつ、都合のいいところだけ男に協力を求めるのは端的に卑怯である。

子育てに協力的でない夫を「お前の子供だろ!」と一喝するには、まず第一に親権を平等にしなければならないはずだが、そんな当たり前のことがわからない人が大勢いるのだ。

自ら産んだ子供の所有権を緩めることに抵抗感を示すのは女の自然な生理かもしれないが、リベラル思想は時に人間の生理に反する。「人類にリベラル思想は早すぎた」などといわれる所以である。

「女性の社会進出」という、人類の長い歴史から見れば「不自然」な状態は、母親が子供の所有権を半分譲りわたす「不自然」を実現して、初めて達成されるのである。

それができないのであれば、できない人々に合わせた社会設計になるのは当然だ。つまり、現状日本に存在するとされる男女格差の多くは、「子供は母親の所有物」という思想が生み出したものといえる。強力な親権を盾に子供を連れ去り、殺してもなお同情を集められる特権的立場がつくった陰の部分なのである。

 
以下はおまけです。本文の続きを少しと、個人的な思いを綴ったエッセイ的な文章など。

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