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夏の思い出①狂気は静謐に宿る

 台風の日でした。
 夕刻。渋谷駅のスクランブル交差点から文化村通りの坂道を行きました。大盛堂書店の看板や109ビルの入口を横目に見ながら、二十歳頃の記憶がフラッシュバックしてきました。これはきっと通りすがりの人たちの貌(かお)が若かったせいか、あるいは、路面を叩きつける雨音が僕を内省的にさせたせいなのかもしれないと思いました。
 ズボンの裾を雨風に濡らしながらも辿りついたのは、東急Bunkamuraのル・シネマでした。フィンランドの女流画家ヘレン・シャルフベックの伝記映画である『魂のまなざし(原題:HELENE)』を鑑賞するためでした。主演はラウラ・ビルン、監督はアンティ・ヨキネンです。
 この映画は、たとえばアルベルト・ジャコメッティの『ジャコメッティ 最後の肖像』(2018年)やハンナ・アーレントの『ハンナ・アーレント』(2013年)の伝記映画に匹敵する作品だと思いました。それは、ヘレン・シャルフベックを一人の芸術家として、そしてまた一人の女性として、魅力あふれる役柄に演じきったラウル・ビルンの功績でしょう。台詞の吐きだし方に知性を、表情の凝らし方に感性を感じさせる女優さんでした。
 一方、アメリカ映画の『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)や『ジャージー・ボーイズ』(2014年)に比べると、ドラマチックな要素に欠けているかもしれません。たしかに胸につまるような場面はあったとしても、いわゆる”泣かせる”までに至ったシーンはありませんでした。
 しかしながら、敢えて観客に感動を要求しないところが本作の密かな魅力ではないかと僕は思うのです。僕が印象にのこったカットは、アトリエ、湖畔の風景、主人公ヘレンの表情です。監督のアンティ・ヨネキンは映像を通して<絵画>を描きたかったのではないか。秀逸な近代絵画のような構図や色彩、陰影を表したカットを目の当たりにするたびに僕は直観しました。
 実をいえば、ヘレンとエイナル(ヨハンネス・ホロパイネン)の恋というストーリーを忘れるほど、美しいカットの連続にため息が洩れました。芸術への真摯な眼差し、時には狂気ともいえるような情熱は、静謐なカットの随所に宿っていたのかもしれません。映画の終わるまで、僕は何度も目を瞑って<絵画>を心に再現していました。
 Bunkamuraの建物を出ると、すっかり辺りは夜となり、強風は相変わらず続いていました。僕は心に映画の燈(ひ)を灯しながら帰るのでした。この灯りが渋谷のネオンに消されないよう・・・・・・。

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