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クラシック談義に懐疑的な私

私はブログで好き勝手にコンサートの感想を書いてるせいか、結構「クセの強い人」と思われがちなところがあるが、実際会ってみるといたって「気の弱い人(気を遣う人)」であるとわかってもらえると思う。

HSP(繊細さん)だから当たり前なのだが、「佐渡裕のコンサート行ったら鼻息がうるさくてひどかったですよー」くらいは事実なので言うが、「佐渡裕なんて聴くに値しないですよ!」とは言わない。

他のクラオタさんと話す機会で、たまにこうした強い物言いをする人に出会うことがある。

私はカラヤンにしても小澤征爾にしても大して録音を聴いていないし、歴史的名盤で聴きもらしているものも数多い。
それに聴いていたところで、細かい表現はほとんど忘れてしまってるので、具体的な感想を言うことができない。だから他の人の意見を聞く側に回っていることも多い。

何だろう、決めつけが嫌なのだと思う。実際に何度か聴いているマケラや大野和士にしても、「自分と合わない」というだけで、彼らの芸術性がおかしいとはとても思わないし、そもそも「スコアを読まずに聴いてる」という引け目が私には常にある。ラーメン店の食べ歩きをしてるだけの人と同じだという認識である。

というわけで、クラシックを語るサークルに参加したいともあまり思わない。一対一で気のおけない人とクラシック談義するのは楽しめても、大勢で語り合いたいとは思わない。

私にとってクラシックを聴くって個人的な営みなのかもしれない。コンサートの感想をすぐ誰かに話したいとも思わないし、自分が行ったコンサートの感想を検索することもほぼない。
どんなコンサートでも99%の人は褒めてるから、読んでいて大した違いもないし面白くない。

じゃあなんでコンサートブログをその日のうちにアップしてるかというと、音楽から受けた感動を(それがマイナスのものであろうと)何とか長文で表現してみたいと思うからだ。
私にはXのポストはメモ帳みたいなものだから書く媒体としては物足りない。大きな真っ白なキャンバスに抽象画を描くような感覚で感想を書きたい。

せっかく書いた感想なのでアクセス数が多い方が嬉しいけれど、長年書いててバズることもないし(久石譲のときのアクセスの伸びは結構凄かったが)、そこは半分諦めている。
自己顕示欲が動機のブロガーは続かないが、私は書くこと自体に喜びを感じるので、細々と現在まで続いている。

話は戻るが、クラシックの演奏の品評を聞いてるとどこか恥じらいを覚える。おそらくプロの演奏家が聞いたら噴飯物の感想も中にはあるだろう。
でも、それでいいのだ。クラシックに限らず、芸術文化は素人の愛好家に支えられているのだから。楽典の知識があるファンばかりになるのもそれはそれで気持ち悪い。

結局私は「自分がクラシックのことを全然わかっていない」という思いがあるから、口が重くなってしまうのだと思う。
これは「みんな違って、みんないい」という精神ではない。例えば指揮者として滅法評判の悪いアシュケナージにしても、実際に複数の演奏を聴いてみないことには酷評できないと思うのだ。

私は彼の実演ではフィルハーモニア管弦楽団とのチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いた。大層な凡演だった。
晩年に録音したフランス組曲も呂律が回ってない演奏だった(テクニックの衰えだ)。

だから多少は聴いているのだが、だからといって「アシュケナージなんてひどいもんですよ」とはあまり言う気になれない。別に芸術家に対する敬意の表明などではなくて、単に自分の方が音楽をわかってないと感じてしまうからだ。

ブログで威勢のいいことを書いてるのはネット弁慶みたいだが、私は演奏に異議を唱える以上、「私の感じ方が間違ってるのかもしれない」とか「好きな人には申し訳ないが」といったエクスキューズを書きたくないのだ。
他人のそうした生ぬるいレビューを読むと、批判するなら覚悟を決めて書けよ!と思ってしまう。

普通は逆なのかもしれない。対面で談義するときは言いたい放題言って、ネットに書くときはバッシングの反動を恐れて尖ったことは書かないとか。
私の場合、Xそのものに書き込んでるわけではないから、かろうじて炎上を免れているのかもしれない。

クラシックは好きだが、他人とことさら感想を分かち合いたいとは思わない。一緒に聴いた友人がいれば感想を話し合ったりはするが。

クラシックの品評を口にするときに恥じらいを感じたり、サークルなどで語り合いたい欲求がないクラオタもいるのだろうか?

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