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木を見て森を見ず 高関健/シティフィルのマーラー交響曲第5番

オペラシティコンサートホールで、東京シティフィル定期を聴いた。

シベリウス:交響詩「タピオラ」 作品112
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調

指揮:高関健
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

20世紀を代表する迷指揮者であり名評論家である宇野功芳の造語に「体臭」がある。

使い方はこんな感じ。

バッハよりカザルスの体臭を感じさせる(指揮作品に関して)。

モーツァルトよりバーンスタインの体臭を感じさせる。

あるいは、こんな言い方も。

バッハよりカザルスを聴くべき演奏。

何のことかというと、音楽家の個性が前に出過ぎてしまって、作曲家の魅力を削いでしまっているということだ。

確かにカザルスのブランデンブルク協奏曲なんかロマン派臭が濃厚すぎるもんね(クレンペラーしかり😅)。

その「宇野語」を借りて言うなら、今日のマーラーは「マーラーより高関健を聴くべき演奏」だった。

私はびっくりした。高関健って、「楽譜に忠実」路線の第一人者なので、自らの個性は埋没させるタイプと捉えていたからだ。

今日のマーラーはやりたい放題だった。

一番顕著なのは第3楽章。実質首席ホルン奏者の谷さんをコンマスの隣に立たせて吹かせていた。

ホルン協奏曲のような按配だったが、出だしから音が裏返ってしまい、慌てて中の水を抜いていた。

オケのアンサンブルもあまり合ってる感じがせず、雑然とした印象だった。

第1楽章は出だしの金管のフレーズが終わり、弦楽のみの入りになるとやたらテンポがのっそり。

表情づけが細かい。いや、細かすぎる。指揮を見ていてそう思った。

もともと楽譜に対するこだわりが尋常ではない指揮者だが、今回はオリジナルの高関版の楽譜を用意したらしい。ボウイングの指定まで細かく行ったとか。

その効果?は顕著で、音楽がスムーズに流れていかない。

音楽の流れって、縦方向と横方向があると思う。

横方向は自然な流れ。水が高いところから低いところに流れるような、呼吸や脈拍に沿ったある意味心地よい流れ。

縦方向は「解釈の深掘り」というか、細かな表情づけ。

意味を感じさせずにひたすら横に流れる音楽も困るが、今日の高関マーラーは縦方向の意図ばかり強調されていて、自然な流れが損なわれていた。

いろいろ味付けしまくって変な味に仕上がった料理みたい😅

シンプルに塩だけでいいのだ。本来の高関健はそういう音楽家ではなかったのか。

同コンビを聴くのは記憶にあるかぎり4回目?

スメタナの「わが祖国」とマーラーの9番は大傑作だったが(スメタナは泣いたし、9番のときの客席は異様な緊張感だった)、竹澤恭子とのエルガーとシベリウスの4番は私にはいまひとつだった。

今日のマーラーは一番ひどかった。こういうことを書くからXで「評論家気取りのバカ」みたいに言われるのだが、Xで褒める行為は評論ではなくて、このブログが評論と思われる理由がわからない😅

高関健は好きな音楽家なんですよ!
「ノットと高関健は裏切らない」という迷言?を吐いたこともありました😂

それだけにびっくりした。高関健でも今日みたいなことがあるのか!と😳

ちなみにノットのマラ5も精度が粗く、残念な出来だった。

久石譲もひどかったが、カーチュン・ウォン/日本フィルは素晴らしかった。
ライブCD化されていて、そちらも聴いたが当日の熱量が再現されているのでぜひ聴いてみてほしい。

今日の高関健はやりたいことがありすぎて(指示が細かすぎて)、まさに「木を見て森を見ず」という印象だった。

次々にキューを出すので、普段に比べて指揮姿が落ち着きなく見える。

最近YouTubeで見た、佐渡裕がベルリン・フィルにただ一回客演したときのリハーサルを思い出した。

しょっちゅうオケを止めて細かい指示をするので、楽団員の顔があからさまに曇る。

世界一流のプレーヤー相手に「釈迦に説法」状態だった。

やはり、ある程度オーケストラの自主性を尊重しないと自然な音楽にならないのでは?

今日の高関版マーラーは表情づけが細かすぎて、音楽の流れが不自然に感じた。

第1・2・3楽章が長く感じたし、アダージェットは理知的でムードに欠け(近くに落ち着きのない人がいて気が散ったせいも多分にある)、第5楽章も内容空虚なまま進んでいった。

第5楽章の終わりの方でコンマスの荒井さんが低弦の旋律に合わせて首を振っていたが、私にはどことなく緊張感の欠けた仕草に見えた。
指揮者とオーケストラの温度差を感じずにはいられなかった。

最初から最後までオケと指揮者の呼吸が合っていなかった。

テンポではなく、やりたい方向性のことだ。高関さんの細かい指示にオケはよく応えていたと思うが、はたして楽団員の頭の中にどんなマーラー像が描かれていたのだろう。

因数分解でも現在進行形でもいいのだが、人に何かを教えるときって、表面的に理解してるだけでは突っ込んだ質問が来たときに答えられない。
わかりやすく人に説明できるようになって、初めて理解したと言える。

オケの理解度というか、指揮者の解釈への共感度がそこまで高くなかったために、ちぐはぐな音楽になってしまったのではないか。

シベリウスの方が出来はよかったかもしれない。
サラステ/N響で聴いたときよりもフィンランドの風?を感じた😅

シベリウスらしさはよく出ていたと思うが、いかんせん曲の面白さがわかってないので、晦渋な曲ね〜と思った程度😅

なんか「推しを貶されるのは許せない!」という人がいるのかもしれない。
私は大植英次貶されても嫌な気はしませんけどね😅

先日、神奈川フィルとの「幻想」に大感激したが、「大植の幻想は格調高くて素晴らしい」と共感できない褒め方をされるより、「大植の幻想はテンポ揺れまくりで嫌い」と書いてある方がはるかに納得できて好ましい。

その個性が好きかどうかは人それぞれなので、評価が違っても私は全然構わない。

今日の高関/シティフィルのマラ5は、少なくとも私には「わが祖国」やマラ9とは対極の出来栄えに感じた。

会場は大喝采だったが、早々と帰途についた。

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