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陳健一の麻婆豆腐

先日石巻グランドホテルに用があって一泊した時、ちょっと忘れ物をしました。今日それを受け取りに行きがてら、ホテルで昼飯を済ませることにしたのです。フロントに「陳健一氏直伝の麻婆豆腐」というのが自慢料理として掲げられていたので、それを頼んでみました。

実は私、まだ陳健一氏が存命の頃、東京の彼の店で麻婆豆腐を食べたことがあります。でもそれは2001年か2002年、つまりもう20年以上前で、それ以来私は本物の四川料理屋で麻婆豆腐を頼んだことがありません。一つにはあの陳健一氏の店の麻婆豆腐でいささかおそれをなしたから、なのですが。

さて、運ばれてきた麻婆豆腐を見て、私は「あの朧げな記憶に残る陳健一の麻婆豆腐に似てはいるが、何かが決定的に違う」と感じました。しかしそれがなんなのかわかりません。確かにこの麻婆豆腐も花椒(ホアジャオ)をふんだんに使っているし、その辺の中華料理屋の麻婆豆腐に比べればかなり辛い。そうなんですが、あの20年前陳健一氏存命当時に彼の店で食べた麻婆豆腐とは、明らかに何かが違います。

食べているうちに、その違いがなんだったか、思い出しました。陳健一氏の店で出された麻婆豆腐は、容器いっぱいに盛られた真っ赤な油の中に麻婆豆腐が沈んでいたのです。麻婆豆腐の周りに油が浮いているのではなく、てんこ盛りの真っ赤な油の中に麻婆豆腐が沈んでいました。あれは仰天しました。流石にああいうものは、石巻で出しても受け入れられないでしょう。

では石巻グランドホテルで今日私が食べた麻婆豆腐は何に一番に似ているかといえば、それは中国人が日本に来て始めたばかりの料理屋の麻婆豆腐です。陳舜臣が書いているのですが、昔は神戸や横浜の中華街の店が中国から調理師を呼んでも、客に出す料理はしばらく作らせなかったそうです。当然そういう店がわざわざ中国から呼ぶのは、中国でも一流の調理人です。しかしその味を当時の日本人に出しても、受け入れてもらえなかったわけです。だからその人が「日式」を身に付けてから、客に料理を出させたというわけです。わざわざ中国から招かれた調理師にすれば面白くなかったでしょうが。

しかし今の中国人は、そんな面倒な真似はしません。日本に来て、資金の目処がつけばすぐに店を開きます。開いだばかりの頃は、無論中国でその人が習い覚えた味の料理を出すのです。そういう店の麻婆豆腐に、ここの麻婆豆腐はよく似ています。しかし開店当時中国の味を出していた店も、しばらく商売しているうちにだんだん日本風、「日式」になっていきます。そうしないと客がつかない。逆にそうなってしまった店は、もう私は興味がないから、行かなくなるんですけど。

日本人は「中華料理」「中国料理」と言いますが、中国には中華料理も中国料理もありません。あるのは北京料理、上海料理、広東料理、四川料理、江蘇料理、安徽料理、湖南(フーナン)料理、浙江料理、福建料理などなど、「地方独特の料理」です。無論北京や上海といった巨大都市にはあらゆる料理屋が軒を連ねていますが、一軒たりとも「中国料理屋」とか「中華料理屋」はないです。いろいろな地方の料理を出す店があるわけです。麻婆豆腐はもともと四川料理ですが、あまりに有名なため、北京料理の店だろうが上海料理の店だろうが、麻婆豆腐はメニューにあります。しかしそれは四川料理の店で出てくる麻婆豆腐とは、かなり違うものです。まあ、上海で出てくる「北京ダック」も相当に北京のそれとは違うんですが。

麻婆豆腐から話が飛びました。「中国の食品は絶対食べない!」と頑張る方は多いですが、おそらくそういう方だって日式麻婆豆腐や日式炒飯は召し上がるだろうと思いますけどねえ。

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