医療医学の裏の裏

このグループには医療医学に関心をお持ちの方が多いようです。ある人から、「血圧や糖尿の基準値はだんだん厳しくなっているが、あれはどういうわけだ」というご質問を戴きました。それでお答えします。



高血圧や糖尿病を治療するのは、それによって生じる心血管疾患、つまり狭心症、脳梗塞、心筋梗塞、バージャー病(下肢の血管が詰まる)、腎不全(腎臓には無数の細かい血管が通っているのでそれが詰まると腎機能が麻痺する)等々を防ぐためです。



このことに全世界の医者は異論がありません。コレステロールはちょっと異論があるのですが、それは後に述べます。



それでですね。こう言う高血圧や糖尿病によっておこる動脈硬化性の疾患というのは、老後に意味を持つわけです。年取ってから起こる。だから歳を取らない人は、そういうことはどうでもいいんです。



年取らない人なんかいないだろうって?いやいや、例えば夏目漱石は糖尿病でした。漱石は有名人でしたから、東大病院が治療していました。その闘病経過は漱石自身が日記に書いています。パンを一枚とか半分にしろと言われてかなりイライラしていたようです。



しかし結局の所、漱石は49で死にました。死因は胃潰瘍の大量出血です。つまり漱石は、糖尿病による心筋梗塞やら脳梗塞には悩まされませんでした。だってそういう病気が起きる前に死んじゃったんだもの。




当時は糖尿病より胃潰瘍が危険だったわけです。



しかし今、胃潰瘍で死ぬ人はいません。プロトンポンプインヒビター(PPI)が開発され、また胃潰瘍はピロリ菌によって引き起こされるという事が分かり、ピロリ菌を除去する治療が一般化して以来、胃潰瘍は死ぬ病気ではなくなりました。薬で治るのです。



しかし私が医者になった1990年当時は、まだ「胃潰瘍で胃を切除された」人は一杯いました。当時は胃酸を抑えるH2ブロッカーが一般化し始め、数年後にもっと強力なPPIが登場し、その後ピロリ菌除去が広まったのですが、それ以前は胃潰瘍で胃を切るというのは当たり前だったのです。



つまり医療医学が何の疾患に注目し、どんな治療目標を設定するかは時代によって変わります。平均年齢とか疾病構造で変わるわけです。



昨日も書きましたが、一番初期の医療に於いては医療=感染症です。極めて医療事情が悪い国や地域では、ともかくワクチンを広めます。アンチワクチンの方々には申し訳ないのですが、医療基盤が何もなく、感染症が蔓延しているところで、病院を建て、医師や看護師やその他医療専門職を育成し、医療機器を備えるのはものすごく大変です。その上それをやっても「停電で今日は動けません」という事になります。



だから、まず感染症を抑え込むには人々にバーッとワクチンを打つわけです。ワクチンで感染症が起きなくなれば、他の医療資源が間に合わなくてもどうにかなるってことです。



医療というのは生きた学問です。何が適切な目標か、何をターゲットにするのか、何をメインにするのか、その場その場の状況で変わるのです。



漱石の時代は胃潰瘍が問題だったし、平均年齢が80を超えた今では糖尿病や高血圧が問題になるし、さらには認知症をどうするかが問題になるのです。そして治療の目標値もその都度その都度変わるのです。



というのが公式のお話。これから非公式の話をします。



えーと。血圧治療の目標値をどうするかは、主に日本高血圧学会のガイドラインによって決められています。糖尿病の治療目標は日本糖尿病学会のガイドライン。コレステロールは日本動脈硬化学会のガイドラインです。



ところがですね。こういうガイドラインを決めるえらい先生方と製薬企業は、必ず利益相反を持っています。ぶっちゃけお金を貰っているのです。講演料とか執筆料とか大学の講座に入る寄付金とか。



じゃあそういう腐れ縁が無い人が決めたら良いじゃ無いかというと、腐れ縁が無い人というのは、つまりその分野の専門家じゃないわけです。私なんかなんの腐れ縁もないですが、それは私がこう言う分野の専門家じゃないからです。



困りますよね。



専門家はみんな腐れ縁があるし、腐れ縁が無い人は専門家じゃない。どうしたらいいんでしょう。



深く突っ込むなら、ガイドラインが依拠している英文原著論文を読むしかないです。しかも批判的に読むのです。有名で大規模な臨床研究に参加して論文書いている人はほとんど利益相反、つまり腐れ縁があるのですから、そういう目で論文を読みます。それで、各国から出されている同じような論文と見比べ、色々な論文のデータを総合した「メタ解析」という論文も読んで、「まあこのガイドラインは概ね今世界中で出ているデータと比べてそうおかしくはないな」と判断するのです。



ところがそういう作業をした時、「ちょっと待てよ」となるものがあります。コレステロールです。



高血圧や糖尿病は、ガイドラインの作成者が相当利益相反(腐れ縁)があることを考慮しても、世界中のきちんとしたデータと比べてそれほどおかしいことは言っていないのですが、日本動脈硬化学会が出しているコレステロール(LDLコレステロール、俗に言う「悪玉コレステロール」)の治療目標は、かなり疑問があるのです。



まず、最近20年間、日本人を対象にしたコレステロール治療の臨床試験は一本しかないのです。しかもそれは「心血管イベント(心筋梗塞とか狭心症とか)を起こした人」を対象にした試験です。そういう人のコレステロールを下げると再発が減ったと言うのです。それ以外の、単に健診でコレステロール値が高いと言われた日本人を対象にしたきちんとした臨床試験は、少なくとも最近20年間で私が調べた限り、存在しません。



では日本動脈硬化学会が定めるLDLコレステロールを140以下にしようというのは、何を基にしているのか。それは欧米人を対象とした臨床試験です。欧米人は日本人より遙かに心血管イベントを起こしやすいのです。5倍ぐらい多いんです。その人達を対象にしてLDLコレステロールを何処まで下げるとそういう疾患が受忍範囲にまで減らせるか、と言うデータに基づいて定められたのがLDLコレステロール140以下なのです。



それってどうなんだ、となるじゃないですか。元々心血管イベントを5倍以上起こしやすい人々のデータで日本人の目標値って決められますか?しかもそれをガイドラインにしている日本動脈硬化学会がコレステロール治療薬の製薬メーカーとズブズブに癒着してるんですから。



じゃあどうしたら良いんだと聞かれると、私にも分かりません。分からないことは「分からない」と答えるのが科学者のあるべき態度です。信頼出来るデータ、エビデンスがない、と言うわけです。



と言うわけで私は、過去に心血管イベントを起こしたことが無い人のコレステロール治療はやりません。信頼出来るエビデンスがないですから。でも血圧の治療はやるし糖尿病の治療もやります。信頼出来るエビデンス、色々な世界上の臨床データと見比べて、ガイドラインはそうおかしな事を書いていないと判断したからです。



まあどの世界も、色々と裏があります。裏がない世界なんてないのです。専門家って言うものは、その裏の裏をくぐるわけです。裏の裏を探って、「これならばまあ当てにして良いだろう」という事はやるのです。いやあ、これはちょっと裏だらけで真実は怪しいと判断したらやらないのです。



これって何も医学に限った話じゃないはずです。皆さんがなさっているお仕事の業界も、みんなそうでしょう?




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