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『失われた時を求めて』感想

 プルーストの『失われた時を求めて』を読んだ。とうとう読んだ。
 と言っても「第一篇スワンの家のほうへ第一部コンブレー1」100頁だけ。
 この章の最後に、紅茶とマドレーヌのくだりがある。
 今のところ、これ以上読むつもりはない(笑)

 読んだところで気ままに感想を書いてみる。
 『物質と記憶』を手元において。

 先ず、名文である。翻訳で読んでいても文章のオリジナリティが伝わってくる。
 フローベールがベースにあると思う。自分は読んだことないが、本文中にジョルジュ・サンドの引用があり、もしかしたらその辺りからも影響をうけているのかもしれない。
 シュールレアリスム、巧みな比喩、ユーモアもあり、洒落た文体である。
 それで内容は…

 脳は一種の中央電話局で、その役割は「通話させること」もしくは「待機の状態に置くこと」である。
 『物質と記憶』

 このような哲学的命題を、文学に落とし込んでいる。
 どこか川端文学と呼応するところがあるように思う。
 とくに『抒情歌』にそっくりだと思った。
 物語導入の100頁、短編小説として読んでも完成されている。
 ぜひ一巻だけでも、手に取り読んでみてもらいたい。

 このような書きだしではじまる

 長いこと私は早目に眠ることにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと目が覚める。いまだ手にしているつもりの本は下におき、灯りを消そうとする。じつは眠っているあいだも、さきに読んだことをたえず想いめぐらしていたようで、それがいささか特殊な形をとったらしい…

 このような感じで10頁進む。
 この箇所の描写は素晴らしく、冒頭から「無意志的記憶の蘇生」というものを暗示しているように思う。
 レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返し、ぼんやりとした意識の中で断片的な記憶を想い出しているのだろうか?
 こういう感覚って、あるよね。

 ときには寝ているあいだにおかしな姿勢となった私の股からアダムの肋骨からイヴが生まれたように、ひとりの女が生まれることがあった。(中略)人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる。

 比喩がシュール(笑)
 例えば、疲れて寝て起きたとき、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる感覚って、あるよね?
 自宅かと思いきや、じつは旅先のベッドだった、みたいな。

 このような想起のうずたく混沌とした状態は、きまって数秒しかつづかなかった。多くの場合、いっとき自分のいる場所が不確かなので、その元凶であるさまざまな推測のひとつひとつも区別できなかった。

 旅先で目覚め、一瞬自分がどこにいるかわからなくなったとしても、精神はどこにいるのかを知るために活動をはじめる。
 まわりの事物をながめ、照明や壁の様子から宿泊先のホテルを想い出し、場所を再構成し、身体にやどる記憶が、数秒のあいだに旅の目的を提示する。

 たしかに私はいまやすっかり目を覚まし、正しい導きをえた確信が私のまわりをすべて停止させ、暗闇のなかでほぼ本来の位置に、私の整理ダンスをはじめ、机や、暖炉や、窓や、ドアを据えつけていた。とはいえ目覚めたときの状態で、はっきりしたイメージが提示されたわけではない(中略)すでに私の記憶には弾みがついていた。たいていの場合、私は、すぐにふたたび眠りこもうとはせず、コンブレーの大叔母のところや、その他の土地ですごした私たちの生活を想い出したりして、夜の大半をすごしたのである。

 目が覚めちゃった(笑)
 ここからコンブレーで過ごした少年時代の想い出が70頁書かれる。
 眠れなかった悲しい夜にお母さんがおやすみを言いに来てくれたこと、叔母さんのことなど、けっこうナルシスズムである(笑)
 ついでにマザコンで、出て来る人たちはスノビッシュ(笑)

 少年時代の挿話が終り、ここから有名なくだりが10頁書かれる。
 紅茶に浸したマドレーヌの風味を知覚する現在の私、想い出の連鎖によって、さまざまなイメージがよみがえってくる。

 かりに問いただす人がいたら、私とて、コンブレーにはじつはほかのものも含まれていたし、他の時間も存在したと答えたであろう。だが、そんなふうに想い出したとしても、それは意志の記憶、知性の記憶によって提供されたもので、それが過去について教えてくれるなかに過去はなんら保存されていないで、私としてもほかのコンブレーをけっして想いうかべようとしなかっただろう。実際、そうしたものはすべて、私には死に絶えていたのである。

 ベルクソン曰く、人間の身体には全記憶がやどっているが、通常の知覚は権利的に存在し、知覚を都合により選定する現在意識は、知性で直感を記号に仕立て上げ、純粋意識を隠蔽する。

 このように私の奥底でかすかに震えているのは、たしかにイメージであり、視覚的な想い出にちがいない。それがあの風味と結びつき、その風味を追って私のところまでやって来ようとしているらしい。しかし想い出は、あまりにも遠いところで、あまりにも混沌とした状態でうごめいている。(中略)この想い出、この古い瞬間は、同じような瞬間の牽引力がずっと遠くからやって来て、私の奥底で、要請し、揺り動かし、もち上げようとしているのだが、はたして私の意識の明確な表面にまで浮かびあがれるのだろうか。私にはわからない。

 ベルクソン曰く、現在は私の関心を惹くもののために生きているものであり、現在の私は私に直接的な行動を促すものである。

 すると突然、想い出が私に立ちあらわれた。その味覚は、マドレーヌの小さなかけらの味で、コンブレーで日曜の朝、おはようを言いにレオニ叔母の部屋に行くと、叔母はそのマドレーヌを紅茶やシナノキの花のハーブティーに浸して私に出してくれたのである。その後もプチット・マドレーヌを見てはいたが、味わうまではなにも思い出すことがなかった。

 ベルクソン曰く、完全な知覚は過去を現在の中に差し込み、唯一の直感のなかで純粋持続の多くの瞬間を収縮させ、個人的に属し充満する諸々のイマージュと一致する。

 それが叔母が私に出してくれたシナノキの花のハーブティーに浸けたマドレーヌのかけらの味だとわかったとたん、日本人の遊びで、それまで何なのか判然としなかった紙片が、陶器の鉢に充した水に浸したとたん、伸び広がり、輪郭がはっきりし、色づき、ほかと区別され、確かにまぎれもない花や、家や、人物になるのと同じで、いまや私たちの庭やスワン氏の庭園のありとあらゆる花が、ヴィヴォンヌ川にうかぶ睡蓮が、村の善良な人たちとそのささやかな住まいが、教会が、コンブレー全体とその近郊が、すべて堅固な形をそなえ、町も庭も、私のティーカップからあらわれ出たのである。

 死にかけた人が見ると言われる『走馬灯』
 例えば、溺れた人は突然の窒息のなか自分の歴史の忘れていた出来事が、詳細な事情を伴い僅かな時間に次々と現れたと明言する。
 歴史とは、年表ではなく、記憶であり、想い出すことなのだ・・・

 古い過去からなにひとつ残らず、人々が死に絶え、さまざまなものが破壊されたあとにも、ただひとり、生命力にあふれ、非物質的なのに永遠性があり忠実なものとは、匂いと風味である。それだけは、ほかのものがすべて廃墟と化したなかでも、魂と同じで、なおも長いあいだ想い出し、待ちうけ、期待し、たわむことなく、想い出という巨大な建造物を支えてくれるのである。

 おわり

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