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仏教の概念

「四門出遊」でシッダールタが得たアポステリオリな綜合は「一切皆苦」だった。
この大前提から「四苦八苦」が生まれる。
根源的な〔生・老・病・死〕に加え、アリストテレスに倣うと〝社会的動物〟としての苦〔愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦〕がある。

この世は苦に満ちており、人は皆苦しみの人生を歩んでいることを認識することで、苦の原因を滅する方法「四諦」を知る。
「四諦」から生まれた実践理性が「八正道」である。

「八正道」を行い、偏らない「中道」の生き方を歩むこと。
これがブッダの定言命法である。
しかし、仏教にはもう少し純粋悟性概念があるので、それらを演繹していこう。

苦の原因を知るには「縁起」の理法を知る必要がある。
この世のあらゆるものは“因”という直接的な原因と“縁”という間接的な条件より起こる。
これが「因縁生起」であり、互いが生じたり滅したりすることで、生起も変化するのだから、そこからさらに二つの悟性概念が生まれる。

①因や縁が変化すれば生起も変化するのだから、永遠に存在するものなどないという「無常」が「諸行無常」である。
②すべての事象は関わり合いから成っているのだから、自己は存在しないという「無我」が「諸法無我」である。
自由意志の因果律が「十ニ縁起」であり、そこから苦の原因を辿っていくと、そこに「無明」がある。
「無明」から生じる渇愛を滅するには「煩悩」を捨て「涅槃」に達するしかない。
悟りの平安な境地が「涅槃寂静」であり、先の「諸行無常」「諸法無我」と合わせ「三法印」となる。
我執を捨て、拘らず、捉われず、生きること。
煩悩からの解脱とは、ようするに「生きんとする意志の否定」である。
じつは仏教とショーペンハウアーを紐づけするため書いている。
全集を読んでみたが、ショーペンハウアーは一般に言われるほど仏教に言及していない。
ところが、ショーペンハウアーはたしかに仏教的なのである(ちなみにニーチェはあまり仏教的ではない)それだからここからナーガルジュナへ跳躍し、重要な純粋理性概念「空」をまとめ、ひとまず終わりにしたい。

「四苦八苦」の苦しみのひとつ「五蘊盛苦」の「五蘊」とは、ブッダの超越論的感性論である。

悟性をもつ人間は、常に事物に拘って生きるが、その拘りこそ「四苦八苦」の元であり、心身を構成する五つの要素「五蘊」そのものが「空」であるという窮地に至れば、拘りから解き放たれ、苦を克服することができる。

「空」とは、ゼロや空気のように“有ることも無いこともない”というとらえかたであり、例えば、般若心経の『色不異空,空不異色』とは、形あるものは空であり、空が形あるものを構成している(色は空と異ならず,空は色と異ならず)という“どちらにも拘らず捉われる”なという命法である。

この世のありとあらゆるものの真の姿は「空」であるという認識は、外側の物自体への執着を捨てさせる純粋理性批判であるが、ショーペンハウアーは人間が固体化の原理に捉われることを「マーヤのヴェールに欺かれている」と説くことで「空」を言い現している。

 固体化の原理を突き破って見ている人、現象の諸形式など物自体にとって関係がないということを自覚している人だけが、永遠の正義を理解し、把握する人であるだろう。さらにまたこのような人だけが、同じ認識の力を借りて、徳というものの真の本質を理解することができるのである。(中略)宗教の教義は、永遠の正義に関するこの認識を、概念や言葉や比喩や叙事的な表現法の許す範囲において、民衆の限られた能力でそれをつかまえることができる範囲で、つまり根拠の原理に従う認識方法へと翻訳されてのことではあるが、神話の形式で民衆の行動に対する規制としての代用品として、直接的に言い表したのであった。(中略)ヴェーダは人間の認識と知恵の最上のものの成果であり、その中心はウパニシャッドという形を成していて、今世紀最大の贈り物として、ついにわれわれ西欧人にも届けられるに至ったのである。

『意志と表象としての世界』抜粋

ショーペンハウアーは物自体を意志と言い換えることで、目の前の現象を追うのではなく“「空」の真理に目覚めること”を図らずも倫理学の基礎とすることになったのである。

仏教とショーペンハウアー(及び西洋哲学との親和性)の研究は今後つづける。

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