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2022年1月の記事一覧

序論まとめその3(48-67頁)

Ⅶ自然の合目的性の美学的表象について 或る対象が合目的と呼ばれるのは、対象の表象が快の感情と直接に結びついているからにほかならない。そしてかかる表象が即ち合目的性の美学的表象なのである。  快が表象の客観に関係するのではなくて、主観にのみ関係する場合に表現し得るのは、客観と我々の認識能力、即ち反省的判断においていわば自由に遊ぶところの悟性および構想力との適合であり、客観(対象)な単なる主観的合目的性にほかならない。  対象の形式を構想力のなかへ補足することは、反省的判断力が

序論まとめその2(上巻36-48頁)

Ⅳアプリオリに立派する能力としての判断力について 判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力である。  もし普遍(規則、原理、法則)が与えられていれば、判断力は特殊をこの普遍のもとに包摂する。そしてこの場合の判断力は〔規定的判断力〕である。  ※我々に可能な一切の直観がアプリオリに与えられている限りにおいて、かかる直観の形式的条件に適用されたカテゴリーに基づく。(42頁)  しかし特殊だけが与えられていて、判断力がこの特殊に対して普遍を見出だすというこ

序論まとめその1(上巻21-35頁)

I哲学の分類について 哲学が、概念によって物を理性的に認識する原理を含む限り、哲学を、理論的哲学と実践的哲学とに区分することは、確かに当を得た遣り方であり、上記二通りの原理それぞれに対象を指示するところの概念も〔自然概念〕と〔自由概念〕と二通りある。  そのうち前者は、アプリオリな理論的認識を可能ならしめる概念である。 これに反して後者は、理論的認識に関しては、単にこれと対立するという消極的原理を自分自身のうちに含んでいるにすぎないが、しかし他方では意志規定を拡張するような

天才論(上巻256-277頁)

 天才とは、芸術に規則を与える才能(自然の賜物〔天分〕)のことである。  ①天才は、何か或るものに対して一定の規則が決して与えられ得ないようなものを産出する一瞬の才能である。即ち天才は、なんらかの規則に従って習得され得るものに対する生得の器用さのようなものではない。それだから独創こそ、天才の第一の特質でなければならない。 ②しかしまったく無意味な、取るに足りない独創というものもあり得るから、天才の所産は同時に模範即ち範例を示すものでなければならない、従って模倣によって生じ

目的論的判断力の方法論 ついでに、いまSDGsとか言ってるピュアなアホが読むべき内容

 相変わらず弁証論は無味乾燥なのでとばします( ;∀;)  目的論的は自然科学に属するのか? それとも神学に属すのか? 学としての目的論は、積極的な理論に属するのではなくて批判に属する、しかも特殊な認識能力即ち判断力の批判に属するのである。 131-212頁要約抜粋 我々は前章でこういうことを述べておいた(126-127頁)我々は人間を、すべての有機的存在者と同じく自然目的と見なすばかりでなく、この地上の世界における自然の最終の目的と判定するに十分な(規定的判断力に対して

目的論的判断力の分析論(下巻10〜54頁) ついでに、SDGsとか地球温暖化とか言いながら家畜の肉食ってイベントの打ち上げしてるアホはこの辺からやり直せバカ

機械論(時計の比喩)  時計のなかの一つの部品は他の部分を動かす道具である。しかし一つの部分は他の部分のために存在しはするが、しかし他の部分によって存在するのではない。つまり歯車は他の歯車を産出する作用原因ではない。それだから時計とその形式とを作り出すところの原因は、かかる物質の自然のなかに含まれているのではなくて、自然と異なる或る種の存在者(その原因性によって可能であるような全体という理念に従ってはたらく存在者)のうちに存するのである。  従って時計は、取り去られた部分を自

崇高の分析論メモ(144〜205頁)

 美は不定な悟性概念の表示と見なされるが、崇高は不定な理性概念の表示と見なされる。それだから適意は、美の場合は性質の表象と結びつくが、崇高の場合には分量の表象と結びつく。  我々は、嵐のなかの大洋そのものを、崇高と呼ぶことはできない。かかる海洋そのものは怖しい光景である、そして我々がこのような怖しい光景を観て或る種の感情(それ自身崇高であるようは感情はなふさわしい心的状態)をもつためには、我々の心意識をすでにさまざまな理念で充しておかねばならない、即ちその場合に心意識は感性