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スポーツ科学とスポーツ人類学、あるいは言語偏重とスポーツ界のガラパゴスについて

スポーツ科学における人文科学の居心地悪さとは?

 年度も終わり頃になると卒論、修論の発表会が続きます。しばしばそこで考えるのが、スポーツ科学における”言語の貧困”とでもいえそうな事態です。

 スポーツ科学といえば、その花形的存在はバイオメカニクスや運動生理学、そしてコーチング学などでしょうか。今世紀に入ってからは、スポーツビジネス分野の躍進も目覚ましい。私の院生時代、所属していた早稲田のスポーツ科学研究科ではグローバルCOEプログラムというのに採択されていて、その一環で研究室の垣根を越えた発表の場が多くありました。それこそ、すでに国際学会・国際誌を主戦場として、英語でバリバリ研究発表するような神経科学やスポーツ医学の研究者たちに混じって、私はスポーツ人類学の研究発表をしていました。

 今でも覚えていますが、最初の方はパワポが文字ばかりで発表としてなってないとか、タイのマッサージなんて研究していったいどんな社会的意義があるんですかとか、結局のところ結論は何なんですかとか、まあ散々な言われようもしました。それで、できるだけ文字を減らし、「理系」の人が好みそうな数値とかグラフとか表など入れてみたりしました。異なる分野の人にもわかりやすい発表が大事だと言われて、そこそこ頑張りました。

 「やってらんないな」

 そんな文句を内心で呟きながら、なんとか怒りを回収していましたが、それなりに消耗したのも事実です。相手の明らかな無理解から来る批判もあったからです。

 とはいえ、こうした経験はその後の自分の研究者としての仕事には随分活かされているし、言われたことは確かにその通りだと思うことも多くあります。文字ばかりのスライドは私だって聞いていて嫌になります(笑)。でも、それが一概にダメとは思いません。

 ただ、今こうして自分で研究するだけでなく、研究のやり方を教える側に立つようになって強く思うのは、「理系」の人たちの言うことや批判を鵜呑みにして、相手に合わせ過ぎるな、ということです。特に言葉を扱うこと、言語を大事にすることを諦めてはいけません。なぜなら、人類学もその他の人文系領域も、言葉こそが最大の分析ツールだからです。

スポーツを言語化するとは?

 これは最初からそう思っていた訳ではありません。運動する身体を対象とするスポーツ人類学である以上、何か「文理融合」的なアプローチができるようにならなくてはと思っていましたし、実際、そういうアプローチを考えることは大事です。分野の近いところでは、舞踊人類学がそうしたアプローチを発展させてきたと思います。

 しかし、そうした方法論上の話のもっと根っこに、それこそ人文系の研究者としての幹の部分に、言語へのこだわりがなくてはならない。

 最近はそういう風に強く思います。

 だから、文理入り混じる場でも、臆することなく言語偏重でやっていくべきです。それは、スポーツ科学という、どちらかというと数字偏重(数字もまた言語ではあるのですが)の世界にいてもなお、自分自身を言語的にガラパゴス化すること。それも徹底的にそうすることです。

 「言葉遊び」を思い出してください。今、私の子どもはちょうど2歳半を過ぎた年頃ですが、この「言葉遊び」を毎日のように楽しんでいます。幼児はまだ言葉を限定的に、実際的に使用することを知りません。その分、自由です。言葉を現実の存在や行為と切り離して扱うことが可能です。例えば、「事実」としては乗ったこともない電車に乗ったと言ったりします。

 「〇〇はこまちに乗って秋田に行ったんだよ。はやぶさにも乗ったことあるよ」あるいは、「トマトがパンになっちゃった」のような突拍子のないことを言う。

 これをすぐさま言い間違えとして、「嘘言ってるなぁ」とか「間違ってるな」とか考えるのは、「言葉遊び」を忘れた大人の狭量かも知れません。「なるほど、確かにそうかも知れないな、そういうこともあり得るかもな」。この「あり得るかもしれないな」という思考の余白を持つことがポイントです。

 実際、「言葉それ自体は、現実から分離している」し、「言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない「他の」世界に属している」と考えられます。これを千葉雅也は「言語の他者性」と呼んでいます(千葉雅也2020『勉強の哲学 増補版』35頁)。

 こうした「言語の他者性」のような考え方は1960年代頃のフランスに端を発する「構造主義」あるいは「ポストモダン」と呼ばれる思想潮流によって、よく知られるようになったものだと思います。今日、このような言語についての見立ては、人文系の研究をする上で、知っておかなければならない基本的な前提と言って良いと思います。

 さて、先程、人文系の分析ツールは言語だと言いました。言語を分析ツールとして使うということは、言語を道具的に扱うということです。それは数学で数字を使うのと同じようなことです。ただ、ここで重要なのは、それが小難しい用語を振り回して、衒学的に難解なことを言うという意味ではないということです。日常的に使う言葉で仮説を立てて、日常的に使う言葉を駆使して学術的な課題を解くことだって可能です。

 普通、私たちは言語を言葉として、現実を言い表すものとして理解しています。とりわけ、研究ではそうした言葉の使用が当たり前でしょう。しかし、人類学や他の人文系領域では、もっと自由な言葉の使い方をとることが可能だし、そうすることで新しい現実を発見することが可能になります。こうして、言葉をそれ自体として扱い、道具的に使うことの最たる例は詩でしょうか。詩のような言葉遊びの世界では「僕は道端の空き缶だ」とか「トマトは悲しみだ」とか言えてしまいますね。

 言葉はこれを自由に操作して、普通ではあり得ない組み合わせをすることで、それまでとは異なった現実の見方を私たちに開示してくれます。これが言葉を道具的に、おもちゃ的に、言葉それ自体として、言葉遊び的に使用してみることの効用です。そして、このように言葉を用いて、それまで普通と思われてきた意味や価値を別の仕方で考えてみることが、人類学では大事なのです。

 新しい言葉を作ってもいいのです。そうすることで、今までとは異なる現実に対する理解の仕方が生まれるなら、研究者自らが概念を生み出しても良い。科学者が実験のための器具を自ら発明するように、私たち人文系の学者は言葉を発明する。

 言葉の道具的操作に慣れる上で、小説を読んだり、TVドラマや映画を見たりすることはとても役に立ちます。ただ物語を楽しむのではなく、やはりここでも、言葉の使い方、言葉の置かれ方を楽しむことで、色々な発見があります。良い小説や良い脚本は言葉の選び方や置き方が独創的で、刺激的です。

スポーツ科学の縁でスポーツについて考えること

 かなり、寄り道をしましたが、スポーツ科学の世界ではどうもこの言語に偏重するような分析が「科学的」な分析とは思われない節がある。もちろん、ここには科学とか学問に対する考え方の違いもあるのですが、「理系」の研究者にとって言葉の道具的使用が馴染まないことも一つの原因ではないかと思います。

 ただ、文理双方の視点で学問することができる人も中にはいます。最近読んだ『天災と国防』(講談社学術文庫、2011)の著者である寺田寅彦もそんな人物の一人でした。寺田は大正から昭和の初期にかけて活躍した戦前の物理学者です。地球物理学関連の研究のほか、身近な現象を科学的に考察した「金平糖の角」や「ひび割れ」の研究といったユニークな業績を残しています。

 一方、寺田は夏目漱石と親交が深く、寺田自身も多くの随筆を残しています。『天災と国防』はそうした寺田の随筆の中から災害に関連するものを集めて再構成したもので、3.11をきっかけに再び脚光を浴びました。

 寺田の文章は私のように物理学の素人でも至極わかりやすい。それは専門知をただ伝えるのではなく、専門的な知識や研究から寺田自身が培った災害やそれに対する防災についての見方や考え方が小気味よく、普段の言葉で表現されているからです。

 言葉による表現や説明の仕方を大切にすることは、最終的に論文や本といった形式で発表される研究の世界では、文理を越えて大事な要素です。おそらく優れた理系の研究者であればあるほど、このことをよく理解しているのだろうと思います。

 であればこそ、言葉以外に駆使できる分析ツールが少ない人文系は、なおさら言葉に対して深く向き合うことが必要になってきます。言葉に執着すると同時に言葉に対して離反しもする。そうして、言葉によって世界を複雑化していく。それが、結果的には、この世界やこの世界にあるスポーツについての現実を多様化し、その固定された秩序を揺さぶることになります。

 スポーツ人類学がスポーツを通して人間や社会を理解しようとするとき、動かし難いように見える現在のスポーツについての固定化された見方をまずひっくり返しみることはとても大切です。そうすることで、例えば、ジェンダーの問題や部活動の地域移行について、これまで見落とされていた側面や問題とされていなかった現象が見えてくる可能性があります。あり得たかもしれない別の可能性としてのスポーツを言葉を駆使して想像してみることです。そして、そうするためには、スポーツ界におけるガラパゴスとして、スポーツ人類学はスポーツに異なる言語を持ち込むことが必要なのです。スポーツ人類学はこのようにしてスポーツやスポーツ科学の中のゴロゴロした異物のような存在であるべきだと思います。

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