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三本ゆびが青空に届いた夏

雨が強くなってきた。マウンドの明日香は、ポケットに入れたロジンバッグで指先を整えボールを握る。

少年野球の県大会決勝。六回裏、2アウトランナーなし。1点リードしている相手の攻撃。

僕はキャッチャーミットの下から、そっとサインを出す。明日香のキメ球、落ちるように曲がるカーブ。これがバッターの膝元に決まれば間違いない。三振でしとめて、最終回の攻撃に弾みをつけたい。

明日香が首を縦に振り、投球モーションに入ろうとした瞬間 ── 主審が両手を頭上で交差して試合が止まった。降雨コールドゲームが宣言され、最後の一球は投げられることはなかった。

「優勝したらマウンドの上であれやろうね」
「あぁ、あれね?」
四番でサードのタカシが、曇り空に向け人差し指を突き出した。

「決勝戦を前に気が早いぞ明日香。気を抜くなよ」
「ケンジこそ、パスボールしないでよね。今日のわたしのボール、キレッキレだよ」
逆に僕がたしなめられた。

僕たちは、幼稚園からの友達で何をやるのも3人一緒。小3のときにタカシが少年野球クラブに入ったのをきっかけに、僕と明日香も野球を始めた。

「あら、女の子が野球してる。可愛らしいわぁ」

見学にくる親達の言葉を明日香は嫌がった。ぜったいレギュラーになってやる、それが口癖だった。その言葉は、周囲の想像を超えて実現する。六年生、僕たちがチームの中心となったとき、明日香は背番号『1』をつけエースに選ばれた。

「全国大会に行って、やり切った気持ちで野球をやめたいの」

県内に女子野球部がある中学校はない。どんなに速いボールを投げれても、投げる場所がなければ野球はできない。明日香の想いは全員が知っていた。チーム一丸となって地区大会を勝ち抜き、初めての決勝戦まで来た。

それなのに、降雨コールドで負けるなんて納得できるわけがない。僕とタカシは泣きながら主審に続行をお願いした。大会規定だからと説明する主審に、タカシが飛びかかろうとした瞬間 ──「ダメぇ!」と鋭い声が響く。振り返ると、目を真っ赤にした明日香がいた。雨が一段と強くなり、1-0で相手チームの優勝が決まった。


中学に入り、僕とタカシは野球部に入部した。明日香は、どの部活にも入らなかったと風の噂で聞いた。別々のクラスになったせいか、思春期の入り口に立ったからなのか。3人で遊ぶこともなくなり、明日香とは学校で会っても軽い挨拶をするくらいだった。

放課後、窓の外をぼんやり見るタカシに、どうした? と僕は声をかけた。

「 明日香、ホントに帰宅部なんだな。あいつなら野球以外でも絶対レギュラーになれるのに」

正門に向かって歩く、明日香の後ろ姿が遠くに見える。タカシは独り言のように続けた。

「オレのこと、恨んでるかな……」
「その話はやめろって何度も言ったろ?!」

僕は少し怒った口調で言う。決勝戦、タカシのエラーが相手の1点に繋がった。記録上はエラーだが、ヒットと呼んでいい難しいゴロだった。

「でもよ、中学になってからオレらのこと避けてない? あいつ」
「それは……」口が一瞬ためらう。「自分だけ野球を続けられないことが、辛いんだと思う」


三年間はあっという間です、と入学式に聞いた言葉はホントだった。がむしゃらにやってきた中学野球。三度目の夏は、県ベスト4という結果だけを残して終わった。

「また届かなかったな」

僕は黙って頷く。タケシとふたり、夏休みで誰もいないグランドを眺めていた。自分たちが引退したことを、まだ頭が理解できていない。

「おしかったね」

懐かしい声に振り返る。明日香だった。おぉぉー、と思わずタケシとハモってしまう。進路相談で登校したら、偶然僕らを見つけたらしい。久しぶりに話す明日香は、どこかスッキリした印象で。ぎこちなかった3人の会話もあっという間に昔のリズムを取り戻した。

「そうだ! 明日香、マウンドから投げてみてよ。休みだから誰もいないし。久しぶりに明日香が投げるの見たい!」
思ったことを口にできるのは、タケシの長所だ。しばらく考えていた明日香は、ウンと小さく頷いた。


制服姿の僕たちがグランドに広がる。キャッチャーは、僕。左のバッターボックスにタケシ。そして、マウンドには明日香。

懐かしい気持ちでいっぱいだ。明日香にとって、3年前の決勝戦は忘れたい記憶かもしれない。でも、僕とタケシにとっては、忘れたくない大切な思い出だ。

いくよー、と明日香がマウンド上で右手をあげる。僕は腰を落とし捕球態勢になった。タケシはバットを嬉しそうに構えている。明日香が投球モーションに入った。肩まで伸びた長い髪以外は、昔と変わらない美しいフォーム 。

シュンっと、空気を切り裂く音が迫ってくる

明日香の指から放たれたボールは、タケシの膝元に落ちるように曲がり、僕のミットに吸い込まれた。バシーンと乾いた音がグランド中に響き渡る。あまりの球速に、僕とタケシは顔を見合わせた。

明日香は、忘れてなかったんだ。

3年前のサインも、野球に対する情熱も。中学になってからもきっと、ひとりで練習していたであろう明日香の投球に、僕もタカシも驚きと喜びが抑えきれない。

「ねぇー!」

マウンドから、明日香の大きな声。

「わたし、やっと決めたの。県外の高校を受験するって。女子野球部がある高校に行くんだ、って」

僕とタケシが同時に走り出す。全速力でマウンドに駆け寄り、笑顔の明日香とハイタッチをする。そして、雲ひとつない空に向けて人差し指を高々とあげた。

三年越しに僕たちの想いが、青空に届いた。




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