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喜びは赤い味

予備校の物理の先生は、俳優の小日向文世さんみたいな優しい目元に鳥の巣みたいなモジャモジャ頭。人懐っこい犬が背広を着て黒板の前に立っているようだった。毎年、この時期になると先生のクフっという笑い声と最後の授業でもらった小さなプレゼントを思い出す。

先生の授業は分かりやすいし面白い。予備校で一番大きい教室はいつも満席だった。勉強に関係ない雑談から始まる授業は、いつの間にかとても滑らかに物理の話に変化する。

ほら、駅前のパチンコ屋の釘はサビサビだから反発係数がとても小さいんですね。v1' - v2' = v2 - v1の運動量保存の法則が成り立たない。物理学的にもあの店では勝てない事が証明できるわけです。

身近な話題で生きた勉強を教えてくれた。でも、予備校仲間とパチンコ屋に行く回数が減らなかったのは、物理学上の未解決問題…。

ちょうど1月の今頃、センター試験が終わった数日後。先生の最後の授業があった。私立の試験もはじまり、生徒が少ない教室。普段なら座れない前から数列目の好位置で授業を受けた。試験直前だからか先生も雑談なしで、笑いも取らずに大事な公式の総まとめを黒板に書き出しポイントを説明する。静かに熱のこもった授業が進んでいった。
壁にかかった不必要に大きい時計、長針があと3周すれば授業が終わるその時に「最後にお伝えしたいことがあります」と先生が話し始めた。いつもより顔が真剣だ。

去年、4年に一度開かれるWFNS(国際脳神経外科会議)で今世紀最後の大発見と言われる衝撃的な論文が発表されたんです。その論文によると、記憶力を強化する「レシチン」、思考力を高めると言われる「テオグロミン」、そしてDHAをある特殊な配合で熱硬化させた錠剤を摂取することで脳を30%活性化できるというのです。

まだ教室は静かだった。

研究チームは、効果を実証する為にドイツのフンボルト大学の学生を二つのグループに分け学力テストを行いました。結果、錠剤を与えたグループと与えないグループの平均点は34%も差が出たのです。しかも、P値は0.01で有意差あり。錠剤の効果が明らかであると証明された論文に学会は騒然となりました。
そして、ここからが大事な話なんですけど、フンボルト大学に僕の友人がいるんです。年末に日本に来ていた友人から、その実験で使用された錠剤の余りをもらうことができたんです。

トン、と大きな紙袋を教卓の上に置く。静かな教室がざわめき出した。一番後ろの席にぎりぎり届くヒソヒソ声で先生は続ける。

一年間、僕の授業を受けてくれた皆さんに特別にお配りします。くれぐれも内緒にしてくださいよ。これがばれたら僕も友人も職を失ってしまいますからね。それでは、袋の中から一つずつ取って後の人に渡してください。

緊張感に包まれた紙袋が回ってくる。
固唾をのむなんてもんじゃない。僕は完全に息を止めて紙袋を待った。真実の口に手を入れるように震える手で紙袋の中から錠剤を取り出す。


???

錠剤は想像していた姿じゃなかった。

リンゴの飴だった。
個包装には、日本語でハッキリと「フルーツのど飴」と書いてある。教室のあちこちで驚きと戸惑いの混じり合った笑い声が湧き上がる。

一つ言い忘れていました。
その錠剤の名前は「プラシーボ」と言います。知ってる人は周りの人に言っちゃいけませんよ。受験が終わったら調べてくださいね。このプラシーボが凄いのは、持っているだけで鎮静効果があるんです。なので受験校がいくつもある人は毎回持って行ってくださいね。もし緊張してどうしようもなくなったら袋から開けて舐めてください。必ず普段の3割増しの力が出せますよ。


あぁぁ、そういうことか。
当時、プラシーボの意味は知らなかったけど、なんとなく想像はできた。

ざわめく教室を満足そうに一瞥し、クフっと笑って先生は言った。
「それでは、みなさんの健闘をお祈りしています」

僕は全ての試験会場にプラシーボを持っていった。合格発表の日も一緒。帰りの電車で舐めたプラシーボは、やっぱりリンゴの味がした。


先生、お元気ですか?
先生を毎年この時期に思い出します。
先生、プラシーボがラテン語で「喜ばせる」意味だと昨日初めて知りました。


先生、まだプラシーボを配られてますか?




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