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子供には、おもちゃが似合っていてほしい

妻に「このお題で書いて」って言われたので書く。
「スーパー戦隊」関連の玩具の売上が、4年前から75%落ち込んでいるよ、という話だ。

なんとかレンジャーとか仮面ライダーとか、プリキュアとかアイカツとか。変身アイテムだったりロボットだったり、ステッキだったり色々あるが、そこら辺の売上がガッツリ落ちている、という内容である。
記事中では「放送時間の変更はそこまで起因していない」「少子化もある」など、色々な原因が推測されているが、その中の一文が衝撃的だった。

「おもちゃで遊ぶのではなく、おもちゃで遊ぶYouTubeを見て満足する」

今のキッズは、おもちゃで遊ばないのか……。

子供がいない我が家ではあるが、ブームがアイカツ遊戯王ポケモンという永久キッズな我々としては、相当衝撃的な内容だった。
妻も思うところがあるらしく、これをテーマにパチパチnoteを書いているので、便乗して僕も書く。

1:「おもちゃを買う」の周辺体験

子供時代を振り返ってほしい。おもちゃを買うことは、それはそれは一大イベントだったはずだ。
誕生日やクリスマス、家庭によってはこどもの日。テストでいい点数が取れたとか、ピアノやスポーツの大会で賞が取れたとか、というのもあるだろう。「欲しかったものを買ってもらえる」ことは、子供時代にとってきらびやかな体験だ。

親の車に乗せられて、ちょっと遠くのおもちゃ屋に行く。建物に入ると、棚にあふれんばかりに詰め込まれたおもちゃの数々。その中から一目散に、自分の欲しいおもちゃがあるコーナーに駆け寄って、お目当てのおもちゃを手に取る。ずっしりと重い。「これを買ってもらえるのか」という期待感。「あ、でもこれもいいな」と目移りしたりもしちゃって。
親に「これ!」と渡すと、「しょうがないな」と「よかったねえ」が混じったような目で見つめられながら、「これでいいの?」と聞かれる。その問いにちょっぴり、「別のあれにしようかな」なんて迷いが生じても、「これがいい!」と言い切って、ソワソワしながらレジに向かう。
レジのお姉さんが「6000円になります」なんて言っている。普段お小遣いで買っている、駄菓子や遊戯王カードのパックいくつ分だろうと驚いたりしながら、スパッと一万円札を渡す親のかっこよさ。重い袋を帰りの車で抱きしめながら、「早く家につかないかな」「開けたいな」と、ワクワクが止まらない……。
家に帰ってひとしきり遊んで、晩ごはんを食べた後も遊んで、寝る。その翌日起きても、買ってもらったおもちゃがきちんと家にある。眠い目で「夢じゃなかったんだ」と嬉しくなったりして……。

とまあ、こんなところだ。おもちゃで遊ぶ体験そのもの以上に、「おもちゃを買う」ことに付随する周辺体験の方を、僕は鮮明に覚えている。
皆さんにもあるだろう。「あのおもちゃ、こんな風に買ってもらったな」という記憶が。親の顔や車の匂い。おもちゃと思い出は密接に結びついている。

2:レゴに育てられた空想の力

子供の頃は「レゴブロック」が大好きだった。
小さいものはお小遣いで買っていたが、「忍者の城」とか「スペースシャトル打ち上げセンター」といった大物は、誕生日やクリスマスプレゼントの鉄板だった。箱を手に取った重さや、振るとジャラジャラと聞こえるブロックの音。開けて、組み立てて、バラして別のものを作って……。「おもちゃを買ってもらう」一大イベントの中心には、レゴブロックがあった。

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(まさにこれだ。婆ちゃんに誕生日に買ってもらったやつ)

歳を重ねるに連れて、遊びの中心はゲームボーイと遊戯王カードになっていくわけだけど、レゴでは結構長く遊んでいたと思う。説明書通りに組み立てるのもいいが、好き勝手作るのも楽しい。
親は「せっかく作ったのにバラしちゃうの?」と言ってたけど、好き勝手にやるのがとにかく楽しかった。自分のイメージが形になっていくのが好きだったし、うまく行かなくてもイメージでなんとかなる。
畳の境界線は延々と続く直線道路だし、布団は雪山になる。勉強机の上に積み重ねた教科書は、忍者の城が建つ山にもなれば、スペースシャトルを打ち上げる丘にもなる。時にはジャングル、時には忍者が決闘をする河原もできる。そんな舞台を作ったら、ブロックの人物一人ひとりに決めた物語に則って遊ぶ。さっさと宿題を終わらせて、空想の世界にダイビングだ。

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(スペースシャトルを運ぶキャタピラに惚れた)

いつの間にかレゴは卒業したし、振り返ればプラレールとかトミカもあったけれど、「物語を想像する力」は間違いなく、この遊びの中で培われていったと思う。それが「小説を書く」という趣味に発展し、文章の魅力になって、今は物書きをやっている。
手のひらサイズの小さなブロックが何にでもなること。机の上がどんな世界にだってなること。僕はレゴに教わった。

3:買ってもらえなかった体験だって

当然、あれもこれも買ってもらえたわけではなかった。誕生日とクリスマスくらいだし、月のお小遣いも「コロコロコミック」代といくらか。貧しい家庭ではなかったが、お金に関しては厳しい両親だったから、「欲しい物が買えなかった」体験も多くあった。記憶にないが、おもちゃ屋で「買って買って」と駄々をこねたこともあったかもしれない。
上記のレゴだって、買ってもらえた大物は忍者の城とスペースシャトルくらい。他のシリーズも欲しかったし、親にねだったりもしたが、返ってくる言葉は「次の誕生日まで我慢なさい」だ。代わりにおもちゃ屋にある無料のカタログをごっそり持っていって、それを見ながらパーツを代用して、作っていた。イメージを膨らませればなんとかなるし。

それでダメなら、段ボールと空き箱の登場だ。ハサミとセロテープを駆使して、立体駐車場やスペースシャトルの格納庫くらい、ちょきちょきペタペタで作ればいい。色が無ければ塗ればいいし、絵が無ければ描けばいい。「無ければ作れ」スピリットの爆誕である。
出来上がるものはいびつで貧弱。立駐はレゴの重みに耐えられず、よく折れ曲がっていた。でも「このスペースシャトルは5000トンなんだ!」とか言って、それはそれで楽しんでいた。

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(ワクワクさんにもお世話になりました)

もちろん買えずに我慢もした。「買ってもらえるために」とテスト勉強とかお稽古を頑張ったりもして、報われたり報われなかったりした。少ないお小遣いを貯めたり、やりくりしたり。おもちゃをめぐる体験は、しっかり血肉になっている。
万が一、いや億が一子供ができたら。買うものは買ってあげるけれど、「無ければ作れ」精神は伝えたい。プリキュアの変身アイテムは初期のものだけ買って、後はまあ、段ボールとクレヨンで作ってもらおう。パパも新聞紙で怪人の衣装を作るからおあいこだ。世界に一つだけだぞ。

長々と書いたが、「おもちゃを買う」とは、おもちゃを買う周辺の行為にも大きな価値が付随するということだ。
そこをYoutubeだけで満足してしまうというのは……、結構まずい。

4:お先真っ暗な毎日だけれど

日本はお先真っ暗だ。
流行り病の色々もあるが、それを抜きにしたって未来に希望が持てないなって空気が充満している。というか貧しい。普通に貧しい。「結婚して、子供を育てる」という、生命として当たり前のことすら、ベリーハードモードが突きつけられている。「そこそこもらってるんじゃね」と思える自分でさえ、毎月の給料と諸々の支出を天秤にかけたら、「子供は経済的にハードモード」という結論を下さざるを得ない。趣味への支出を全部子育てに回したとしても、だ。

「経済的に買えないからYoutube見せてる」という声もあるだろう。上記の通り、今時の子育て世代のお財布事情は厳しい。そういう家庭が増えに増えている時点で、もうこの国危なすぎでは、と震えてしまう。子供がすくすく育って、がんばるぞと生きていけないお国に、何というか未来はな……。政治がどうこう、って話になりそうなのでここらへんにしておこう。

そんなベリーハードどん底ジャパンに生きてさえも、「子供くらいは希望持ってくれよ」と「あんたらが将来の日本を背負って立ってくれや」と願う。だから子供には、おもちゃでたっぷり遊んでほしいわけだ。
おもちゃを買う、買ってもらうだけじゃなくて、買うまでのプロセスだとか買えない悲しみも、色々と味わってほしい。その過程で親からの愛情だったり、頑張ることの喜びだったり、厳しさや理不尽だったりも噛み締めたり。壊して怒られたり悲しんだり、おもちゃを通して「自分の宝物」という概念を知り、親にも宝物があると悟ったり。想像の世界を冒険するのもいい。
そんなおもちゃをめぐる様々な体験を通して、子供は色々と学んでいくと信じている。

5:輝きは唯一無二

大人になってホビー熱が再燃してわかったことは、子供時代の輝きは唯一無二だということだ。

今の自分の趣味はトレーディングカードだ。ランダムにカードが入ったパックを開けるのも楽しいが、必要なものは秋葉原のカードショップで、中古で買っていく。その中には、子供時代に欲しかったレアカードが含まれていることもある。必要に応じて買っていくが、昔ほどの輝きは感じられないなと、ちょっと切なくなる。

どんなレアカードよりも、子供の頃に手に入れたあの1枚のほうがずっと眩しいからだ。その1枚には、色々な思い出が込められているからだ。
「ピアノの練習めっちゃ頑張った時にご褒美でもらったパックから当たった」「引っ越す親友と交換した1枚」「隣町の強いお兄ちゃんに勝った時の切り札」などなど。今でも眺めると、一緒に思い出す光景だ。

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(ピアノの練習めっちゃ頑張った時に当てたやつ。今も大事に持っている)

で、大人になった今でも、こうしてカードで遊んでいると、思い出がどんどん増えていく。カードに込められた思い出を語りだすと、どれだけ字数があっても足りない。現在進行系で、おもちゃを買う喜びを噛み締めている。中にはとんでもないお値段のものもあって……。まあそれは割愛しよう。
大人になった今でも、こんなに眩しい思い出が増えている。なら子供の頃の体験は、もっとビビッドで鮮明なものとして、彼ら彼女らの刻み込まれていくだろう。そしてその体験は思い出となって、子供たちが育っていく中で、大きなエネルギーになっていくはずだ。

子供には、おもちゃが似合っていてほしい。
ずっと子供でいたい大人として、そう強く願う。

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