#子どもの連れ去り問題 もう一度

コリンP.A.ジョーンズ氏の「子どもの連れ去り問題 日本の司法が親子を引き裂く」を読み直している。

最初の連れ去り事件のときに手に取って以来、感銘を受けている。

いよいよ中身を見ていくが、つまみぐいてきに紹介したい。

カリフォルニア州の家族法制からの学びである。

同書の第4章は、親子の権利と子どもの福祉 である。

冒頭から、ひびく

もともと、子の考えのなかには、「父か母か」という選択の理論は基本的には存在せず、あるのは「父も母も」という理論のみである。したがって、子の福祉とは、そのような子の理論にそうように調整を図ることである。

これは、『親権(監護権)の帰すう』に言及されているものを引用しているようだ。そして、続く辛辣な指摘はこちら。

両親が離婚した後の子どもに関する日本の法律について語ることはとても簡単だ。法律がないのだ。親子の運命が決定される家裁の調停室や法廷は一種の無法地帯である。

衝撃的である。その上で、アメリカ・カリフォルニア州の実例を一例として紹介している。

・・・カリフォルニア州法では、裁判所が夫婦別居後の子どもについて判断するにあたって、「子どもの最善の利益(best interests of the child)」は何かということが基準になっている。

これは日本も、なんだけどね、何が違うのか。子どもの利益や子どもの福祉を最優先にしない司法制度は世界のどこにもないはずだ、とまでいうが、日本との違いは何なのだろう。

・・・問題は子どもの利益、子どもの福祉とは何なのか、それがどういうプロセスで判断されるのかということである。カリフォルニアの場合、まずは総則規定として、州立法府の・・・内容の明確な意思表示がある。

子どもの利益・福祉を判断するプロセスの定め!、そういう発想が日本にあるだろうか?総合考量という言い方に闇を感じる。カリフォルニアはどうしているのか。

「両親が別居し、婚姻関係等を解消した後に、子どもが双方の親と高頻度かつ継続的な接触を持つことの確保並びに双方の親による子どもを養育する権利と義務の共有を促進することが本州の政策である」・・・

子どもの福祉って何ですか?っていう問いを外務省のシンポジウムで放たれたけども、答えられなかったんだよなー情けないのである。

この家族法典に掲げられる州の意思表示の意味は次のとおりである。

つまり、両親の婚姻状態等とは無関係に、両親と子どもの「高頻度かつ継続的な接触(frequent and continuing contact)」があることが制度全体の大前提であり、虐待などの事情により接触が制限される場合は当然あり得るが、例外的なケースになる。

例外のことも忘れていないところが優しい。例外的事情を心得た上で、しかし大前提としては、両親とのかかわりが大切だということからスタートしていく発想である。

この発想が、 good parent rule にもなる。つまり、親権(監護権)者の選定基準にもなるのである。

・・・もう一方の親との接触が子どもにとって有益だという理解を示す親(いわゆる”良い親”)と、子どもと会うのを嫌がったり邪魔したりする親(”悪い親”)とでは、親権(監護権)者として前者を選ぶことが一種のルールになっている。

良い親と悪い親の指針を全体として共有している点が、すでに文化の壁を感じる。

日本にあるのは、ひたすら、離婚に対する負のイメージだ。ゆえに、がまんしてでも結婚を続ける。だが、その方が、家族を苦しめる実情がある。

カリフォルニア州のルールの確認を続けよう。

次のようなルールがあることも大変興味深い。

・必要があれば、子どもに関する審理を分離して、財産分与等、離婚にまつわる金銭的な処分より優先的に進めるべきである。
・親権・監護権、養育費、面接交渉の具体的な実施方法など、裁判官が判決書のなかに必ず記載しなければならない項目が数多くある。
・別居離婚後は、共同親権・共同監護権(以下、合わせて「共同親権」)とするのが原則で、裁判官が当事者の申し立てに反して単独親権者を決定した場合、具体的な理由を述べなければならず、「共同親権は子どもの利益にならない」と決めつけるような判決を書いてはならない。
・親の性別を判断基準にしてはならない。
・裁判の時点でどちらの親が子どもと同居しているかということを判断基準にしてはならない。
・児童虐待の虚偽の主張があった場合、主張した当事者に、主張された方の弁護士費用を負担させることができる。
・DVや児童虐待が争点となる事件でも、第三者の立会のもとでの面接交渉等を通じて親子の接触を保つべきである。

「判断基準にしてはならない」こともルールにしている点が面白い。こうしたルールがなぜあるのか。

カリフォルニア州法がここまで充実して規定されている理由の一つは、たった一人の裁判官の裁量に子どもの将来を任せることへの警戒心があるからだ。そのため、裁判官に対する細かい指示が目立って多い。

裁判官を信頼していないということだ。

日本は、裁判所を信頼しすぎているのだろうか。

子どもの将来を大切に思うというのは、日本の将来を考えることでもある。

無法地帯といわれる日本の司法が、子どもを泣かせ続けてきたのだと知る。

つづく

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