解説編② 養育権とは #知る学ぶ考える

養育権侵害の法律構成について公開している。

冒頭の時点で、だいぶ厚く語ってしまった。

その解説の続きから。

養育権とは、親子が親子である権利である

親の養育行為は親子という自然的関係に基づく親子間の活動であり、それ故、親の養育権親子が親子である権利である。「子」という日本語は、「親」と対になる意味での「子」と、幼い者という意味での「子」の意味がある。この両者は意味が全く異なるものでありながら、偶々同じ単語が使われているため、子の権利の文脈では混同されがちである。本訴訟において特に意識すべきであるのは主に前者の意味であり、子が子であることの権利、すなわち、親子が親子であることの権利である。ただし、親子という意味での「子」は、養育を受ける時期においては幼く自身の権利主張が困難であることがあり、また、親子関係は特に子が成長する過程において重要な利益であるから、この意味での後者の意味での子の利益も親子の権利は包含することになる。

子というのは二つの意味がある。

①親という言葉の対としての子
 子がいてこそ、大人は「親」であり、たとえ大人の年齢でも、親に対しては、「子」といえるように、子というのは親子の関係を前提とするし、子どもの権利は親子の権利を意味する。

②幼い者という意味での子
 人権は、老若男女問わず、人が人であるときに誰しも平等に保障されるものであるから、たとえ、幼年者であったも、当然人権を享有している。だが、たとえ平等に人権を享受していても、幼さや、未熟であることゆえの配慮が必要という意味で、「子どもの権利」を特筆すべきであったことは理解できる。とはいえ、結局、一番身近な大人、そして、その子を想って、その利益の最大化のために努めるのは、まさに親心をもつ「親」だろう。だから、子どもの権利は、親子の権利という意味になる。

親子の権利を親という主体から見たとき、「養育権」と呼べる。これは、親の権利である。親の権利を否定することは、すなわち、子どもの権利を尊重しないことになってしまう。これを切り離し、親を否定するかのようなアプローチがたまに見られるが、「子どものため」という信念をもった活動が、「親心」に裏付けされていなければ、結局、子の利益を損なう現象を招きかねない。
 子どもは、親を慕い、親は子を愛し(そのために、か弱く生まれながら、親に「似て」愛着が形成されるよう、プログラムされているとも、生物学的に語られることを聞く。)、それが生きる力になる。親心に根付く愛情が必要であり、管理栄養学的な充足だけでは満たされない場合があるのだ。その理解を欠く「子の福祉」のためのサービスは、実は、子のためになっていないことがあると感じる。親を支えてこそ、子は育つ。親に成り代わる何かがあっただけでは、子の育成を妨げかねない。分娩によって、胎児が誕生すると、それまでの母体への依存を断ち切って、自発呼吸をして、栄養摂取も自立して行うことになるが、そうやって、母子をつなぐへその緒が切れたあとも、まるで親子は、見えないへその緒で結ばれているかのごとく、つながりが続く。これは、母性優先を語るものではない。親子のつながりという事実に向き合わなければならないということだ。親とは、父と母がいる。母子関係も大切だが、父子関係も大切であり、それが、子どもの将来にわたる人生の要になっていく。

養育の意思と能力を有する親が子を養育し子がその親から養育を受けることは、親子という自然的関係に基づいた極めて人格的な活動である。これが基本的人権として保障され、不当に侵害を受けないことは、自然権として当然のことである。

親子という実態に目をやれば、自ずと理解にたどりつく。

親子という自然的関係は、憲法以前の人格的な活動であり、自然権として保障されなければならない。

これを否定することができるのであれば、それは受け止めつつも、末恐ろしさを覚える。

旭川学テ判決

よく言及されるこの有名な判例については、こちらから

親子の問題を考えるときに、大切なことを表現しているので、よく扱われる。

 最高裁大法廷昭和51年5月21日判決(旭川学テ判決)は「子どもの教育は,子どもが将来一人前の大人となり,共同社会の一員としてその中で生活し,自己の人格を完成,実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり,それはまた,共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は,その最も始源的かつ基本的な形態としては,親が子との自然的関係に基づいて子に対して行う養育,監護の作用の一環としてあらわれるのである」と判示した。同判決の論理は、子どもの教育の基本的形態は親が子に対して行う形態であると述べており、これは親子の自然的関係に基づく養育・監護作用の一環であるからであるというものである。「教育権」の主体や捉え方については理解が必ずしも一義的ではないかもしれないが、すくなくとも、親子が自然的関係に基づいて養育・監護を行うことは当然の前提となっている。日本でも、親子間の養育関係は まさに自然権的に捉えられているのである。

養育権の自然権としての保障を否定できるのなら、その論拠を楽しみにしている。

海外の憲法の視点

 この点につき、日本以外の例に目を向けてみる。大森貴弘「翻訳:ドイツ連邦憲法裁判所の離婚後単独親権違憲判決」常葉大学教育学部紀要<報告>425頁(甲16)においても、「諸外国に目を転じると,ドイツでは子を育成する親の権利は自然権とされ,憲法でも明文化されており,アメリカでは平等原則と適正手続により親の権利が人権として認められている。日本国憲法には親の権利についての明文の規定はないが,親子の自然的関係を論じた最高裁判決(旭川学テ判決)が存在していることや人権の普遍性等を根拠として,憲法上認められうると解される。」と指摘されている。同指摘にあるように、まさに前述した親子の自然的関係に直結した養育活動は、国や民族、文化に左右されない普遍的な人権であるといえる。加えて、同じく指摘されているように、日本においても、前述の旭川学テ判決の論理のように親子の養育関係を自然権的に捉えていることも、同普遍的権利が存在することと矛盾しない。

児童の権利に関する条約の視点

 次に「児童の権利に関する条約」について言及する。「児童の権利に関する条約」は、18歳未満のすべての人の基本的人権の尊重を促進することを目的として、1989年の国連総会で、全会一致で採択されたものである。そのため、条約の内容は、18歳未満の者の基本的人権に関連するものであるといえる。2019年8月現在、同条約は、署名国・地域数140、締約国・地域数196のようであり、日本は、1990年9月21日に条約に署名し、1994年4月22日に批准しているようである。同条約第7条1項で「児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と規定され、同条約第8条1項は「締約国は、児童が法律によって認められた国籍、氏名及び家族関係を含むその身元関係事項について不法に干渉されることなく保持する権利を尊重することを約束する。」とし、同条2項で「締約国は、児童がその身元関係事項の一部又は全部を不法に奪われた場合には、その身元関係事項を速やかに回復するため、適当な援助及び保護を与える。」と規定する。また、同条約第9条1項に「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。ただし、権限のある当局が司法の審査に従うことを条件として適用のある法律及び手続に従いその分離が児童の最善の利益のために必要であると決定する場合は、この限りでない。このような決定は、父母が児童を虐待し若しくは放置する場合又は父母が別居しており児童の居住地を決定しなければならない場合のような特定の場合において必要となることがある。」とある。上記同条約7条をみると、氏名・国籍を有する権利と同じ条文の中で、児童が父母を知り父母に養育される権利を規定している。氏名の保有など人としてごく基本的な地位と合わせて父母から養育を受ける権利を規定していることは、これがすべての人に与えられた基本的人権であることが前提となっていると考えられる。また、上記同条約9条1項によると、父母の意思に反して児童が父母から分離されることについて、司法審査を前提とした法及び手続に従うことが求められている。このように権利の制約について厳格な手続を要求されているのは、父母から養育を受ける権利が基本的な人権であるからにほかならない。上記のとおり、同条約は、多数の国・地域が署名又は締結する基本的人権に関するものである。そのため、同条約について日本が批准しているかどうかや日本国内での効力にかかわらず、児童が父母から養育を受ける権利は国・地域を問わず人が本来的に享有しているべき基本的人権であることは疑いようがない。そして、いうまでもなく、未成熟の子が父母から養育を受けることと、父母が未成熟の子の養育をすることは、行為として同一の行為であり切り離せないものである。

子が親から養育されることは権利として尊重しておきながら、親が子を養育することを否定することがどうやってできるだろう?

否定できるならしてみたらいい。

(子どもの面会交流権はあっても、別居親の面会交流権はないと言い切るのが日本の司法のようだ、とも聞いている。)

 以上のことから、親の養育権は、自然権であり、憲法13条が幸福追求権として保障する基本的人権であることは明らかである。

児童虐待の観点

 さらに蛇足的な指摘かもしれないが、別の観点から一点述べる。自然権は人が本来的に持っている人格的な最低限の利益であるから、立法事実や社会情勢に左右されないことが基本であるが、見解によっては、もしかすると、立法事実に踏まえて社会の状況に応じてあえて人権として保障すべき権利が存在するかもしれない。この点に関連するのが、現在大きな社会問題となっている児童虐待の問題である。中澤香織「家族構成の変動と家族関係が子ども虐待へ与える影響」『厚生の指標』59巻5号(甲17)によると、5年度に北海道内すべての児童相談所において受理された虐待相談件数のうち、5歳、10歳、14・15歳の129例を対象とし、各児童相談所を訪問した研究班メンバーが児童票から必要事項を転記するという方法で行い、個人情報保護が可能な形に整理できた119例を分析したものである。その22頁に掲載されている「表2家族類型別の主な虐待者」においては、虐待総数119件の内、ステップファミリー29件(内継父実母24件、実父継母5件)、父子3件、母子49件とされており、その合計件数が,実父母家族における虐待件数33件を大きく上回っている。ここで述べたいのは、同居する児童を虐待する大人について、父が多いとか、母が多いとか、あるいは父母の配偶者が多いなどの分析ではない。同居の児童を虐待する大人には、父もいれば、母もいれば、これ以外の者もいる。しかし、そのような虐待に気が付き保護することが最も期待できるのは、その意思や能力から、一般に、実親である父母なのである。上記データは、実父母が揃って虐待をしてしまったケースが相対的に少数であることを示しており、逆に、実父母双方による監視・保護権が何らかの理由で十分に機能しなかったケースが多数を占めていることを示す。この意味でも、現在養育権の侵害は社会問題であるともいえる。
 以上の社会的な実態は、親の養育権保障が後述のように侵害されている結果であると捉えることが自然であるが、逆の観点から、上記社会実態は、まさに、今こそ、親の養育権が人権として保障されていることを確認すべきであることを示す実態であるともいえる。そのため、人権の存在を訴える本項目においても指摘しておきたい。

子どもを守るのは親心のある親の存在。

親以外の大人の目だけでは足りないということだ。その辺りの感覚的な信ぴょう性は語るまでもないだろう。続く虐待報道からしても、一定の傾向を感じ取らざるを得ない。


今こそ、親の養育権という人権を #知る学ぶ考える  ときである。

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