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気持ちに寄り添う、とは
連れ去り、拉致、誘拐
突如として、愛するわが子と断絶を強いられた別居親の間で語られるワードである。
人権侵害を人権侵害であるといっているのに、その言葉を使うこと自体に非難を受けるような処遇にすら強いられていた。
まして、そんな境遇にあることを、恨まず、むしろ自省してみよう、とも。
それ自体は、大切なことではあるが、命からがら、やっとの思いで、わが子を置いて単身逃げるしかなかったというような別居親にも同じことを言えるのだろうか。
多数の現象が何かという問題ではない。
例えば、「そんな派手な服装をしているからよ」とか、「ミニスカートをはいているからよ」という類の言葉がセカンドハラスメントになるのと重なりかねないのだ、というくらいの人権意識が欲しい。
やっぱり振り返ってみたら、心当たりがあることもあるだろう。
だからといって、目の前にあるわが子と引き離される状況に直面したときの、怒りや悲しみ、絶望にあふれ傷ついているということだってあるのだ。
あなたには非がある、といったところで、傷つくことが禁止されるわけではない。
だから、共同親権が必要になる。
原則として、父母は、親として対等である、ということ。
どちらかだけに、譲歩や寄り添うこと、配慮を強いることをしない。両方が配慮しなければならない。まして、それを中立の第三者こそ、遵守しなければならない。
避難として、子を連れて出ていくことになった場合には、その手段がある。
何かの衝動で子を連れて出た場合には、その手段が使えなくなることがある。そうすると、未整備の日本においては、#連れ去り毒 に冒されることになる。
賢さがあれば、自ら救われることがある。
子どもがパパに会いたいといった。会えないのはおかしいと言った。
そういう子どもの声に気づくことができた。
そこから、気づき、学び、行動することもできるだろう。
ただ、それが、運任せというほど支援体制が脆弱で、その好運に恵まれなければ、何年も解決しないという毒々しい地獄になっている。
離婚調停を申し立てたのに、面会交流の話ばかりで全く進展しない闇。
離婚調停が不成立ともいわれないから、離婚訴訟に移行するでもない時間。
出口の見えないトンネルにはまってしまう。そのこと自体に気づきもせず、目の前のことが敵対的に見えてしまい、家族全員が疲弊していく。
その闇の中で、相手を思いやることをお互いに実現したとき、出口を導く光を得る。
共同親権制度は、その光を公的に備えたもの。
それがない日本においては、父も母も、同居親も、別居親も、そして、子どもも闇の沼にはまりかねない恐ろしい状況。
知識と知恵と勇気と優しさと、じゃあ最後は愛かしら。まるでゲームのごとくクエストしなければ、自力では、共同養育世界にたどりつけない無理ゲー。
連れ去りを禁止して、違法にしよう、とは思わない。
#共同親権 によって、共同養育界への道のりを示す手綱さえ得れば、自ずと導かれるだろう。
それはひとり親家庭の貧困からも救うセーフティーネットにもなる。
共同養育のない共同親権はあり得ないのだ。
共同親権は、共同養育のためにある。
しかし、共同親権なくしての共同養育が、どれだけ苛酷で非対等、非効率ゆえ不毛な裁判所通いを招くことになる。
#共同監護合意 は、糸のように頼りないが、かろうじて共同養育を導いてくれるかもしれない。
この糸を太いものにしていくのは、世論に支えられる共同養育理念である。
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