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家庭にも憲法を!ファミリールール

後藤富士子先生の新しいコラム

後藤先生のご主張は一貫していて、初めて勉強会にうかがってお話を聞いたとき、共同親権論にとどまらない連続した家族観の問題に共感があふれていて、ひたすらうなづくばかりであった

全てに通じていく話し

明治民法は、家に戸主をおき、戸主に統率させることでコントロールした

世間体という規範を意識して、無難な行動原理に集約されていくのだから、都合が良い

特に禁止や強い命令がなくても、同調圧力そのものによって統率されていく

そういう家にふさわしく、家族というのは固定化されていった

夫婦と未婚の子を家族の単位とするように、戦後改めたとはいえ、その家族観の固定性は維持されていた

異性カップルが同姓となって共同親権によって子育てをする家族

これを婚姻家族と呼ぶ、これだけで、国家が、都合よく家族を統率できるのである

婚姻家族推奨のための経済システムも様々用意されている

決して、その他の家族を否定しているわけではないが、推奨もしないから、事実上の扱いの差が生まれていく

公的な家族と事実上の家族

事実上の家族には、何も同性関係だけに限らず、異性同士でも、同姓になることを望まなければやはり、公的な家族の仲間入りは許されない

これに抵抗するのが、選択的夫婦別姓の運動になるわけだが

はて

そもそも、公的な家族として認められる必要があるのか?

わたしたちは家族だ

それをわたしたちが決めればいい、そういうことなのだと思う

そのためには、いちいち、いろいろな家族について、ついて、国の承認を与えていくのではなく、一切承認を与えない、とすることで一気に平等になる

わたしたちは家族だ、と名乗るものを家族として認めていく


制度がそのように方針を変えたとき、わたしたちとわたしたちとの間の調整が必要になっていく

多夫多妻制なんて公的に認められていなくても、同意があれば、そうやってる家族だって存在しえる

それを、公なものになってしまったとき、内々の同意ある限りは済んでいたことが、翻意だったり、関係当事者が増えたときに必ずしも同意しない関係者を巻き込んでしまったり、というようなことが起きたときには、やはり、トラブルになるし、紛争の解決が必要になっていく

そうやってルールが必要になり生まれていく

ルールがあることで、予測可能性が生まれ、紛争を回避できるようになる
ルールがあるから、紛争を解決できたりもする

戸主にうまいことまとまらせるといった文化に任せて置く限りは、必ずしも必要ではなかったルールが、個人と個人をそれぞれ対等に尊重することになった以上、必要になっていく

そして、そのルールをうまく扱えれば、お互いに心地よい関係を維持できたりもする

だが、そういう文化は必ずしも根付いていない

子どもにスマホを持たせるにもルールだ、といって、ルールが語られだしたりもする

夫婦のルール、親子のルール、家族のルール

自ずとルールが増えていく

ルールは決して、誰かが誰かを支配するための窮屈なものではない

お互いに対等に約束をして、その結果、自由を得るものであるはずだ

ルールが必要だとして、使い方を間違えると、ただただお互いを苦しめるものになりかねない

話合いで解決する、なんていう一見響きのいいものが、実は一番解決を遠のけたりしてしまう

調停のルールは、まとまらなかったら、審判移行か、不成立で終了、あとは訴訟提起、というところまでが決められている

裁判になるくらいなら、という気持ちがあるからこそ、納得しにくい部分があっても苦味を飲み込める場合もある

細かいルールを決めるというのもひとつの工夫だけど、基礎にあるのは、お互いに大切にすること、を土台にしておくというのもルールの要素だ

すなわち、憲法がいう個人の尊厳

これをファミリールールを考える上でも、意識する必要がある

家庭にも憲法を


めぐりめぐって難しいことを吹き飛ばし、愛のある関係で大切にしあう、にたどりつくものでもある

そんなファミリールール論を、来月の合宿では提供したいという企んでいる!

新しい家族を描いていく
















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