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運命に立ち向かわなくてもいい。映画「夜明けのすべて」

もう公開から一ヶ月も経ってしまいましたが、ようやく映画「夜明けのすべて」を観覧して来ました。上白石萌音と松村北斗が主演です。

映画の内容に関しては、もうかなりの人がレビューを上げてらっしゃいますので、ここでのご説明は軽〜く。

大企業に就職した勝ち組・藤沢美沙 (上白石萌音)と、外資系のキラキラした上場企業でキャリアを積む 山添孝俊 (松村北斗)が運命の出会いを果たす純愛ラブストーリー!
・・・ではありません。
上記のような"勝ち組"に乗っかるはずだった二人がそれぞれ、PMS (月経前症候群)、パニック障害という運命のいたずらにより、従業員10名未満の小さな町工場の従業員へと転落。
自分の身体なのに思い通りに動かせない。
自分の心なのにコントロールできない。
その上誰にもその苦しみを理解してもらえない。
そんないつ明けるとも分からない苦悩に満ちた長いトンネルの中、町工場の同僚として出会った二人。”恋人”でも、”単なる同僚”でもない、戦友のような奇妙な絆を結んで一歩ずつ歩み出してゆく・・・そんなストーリーになっております。

実は私と妻がまさにこの二人と同じ悩みを抱えています。
私がパニック障害持ちで、妻がPMS。
私は何とか仕事を続けていますが、妻はその症状のため何度か職を変えざるを得ませんでした。
私は正直”傷を舐め合う”ような感じがしてこの作品を見るのを避けていたのですが、妻からの強い要望といろいろな偶然が重なって「よし。観よう!」と腹を括った次第です。

主役を取り巻く人たちも心憎い

この映画は当然ながら主役の二人の心情の変化を描くことを中心に進行しますが、二人を取り巻く関係者たちにもそれぞれドラマがあるのが面白いところ。時折り垣間見えるそのドラマによって、この主役二人の辛さとひたむきな生き方を複層的に描く構造となっています。
たとえば家族が自殺していたり、(恐らく事故で)介護施設に入らざるを得なかったり。そう、彼らもまた主役とは違う形で「突如襲った運命のいたずら」に苦しんでいるのです。
それにも関わらず彼らが主役二人に接する姿は、ことの外優しい。悲しみや辛さを表に出さないからこそ、垣間見える優しさがより優しく、そしてより悲しさが引き立つ・・・そんな構造になっています。もちろん彼らの優しさは傷を舐め合っているのではありません。彼らは彼ら自身のやり方で、自分の運命に真剣に処していこうとしています。優しさを内包した強さを持っている。だからこそ運命のいたずらに苦しむ主役二人にも優しくなれる。

ぶっちゃけ「こんな優しい人ばかりじゃないよー」と思いますが(笑)、こういう優しさを持った人が一人でも周りにいれば、パニック障害やその他のメンタル的な問題で苦しむ人は減るのにな・・・というか、こういう人が周りにいれば、そもそもそんな障害を抱える羽目にもならないのにな、と思うこと度々でした。

逆に”運命に立ち向かわない強さ”もある。

さて、先ほど「運命に処する」という書き方をしましたが、この映画で興味深いのが、出演者の運命への向き合い方です。
多くの映画では苦しみを背負った人たちが「運命に立ち向かう姿」「運命を乗り越えようとする姿」が描かれがちです。いわゆる成長ストーリーですね。
それはそれでドラマチックで良いのですが、この作品では「淡々と、しかし一歩ずつ確実に、その運命に処していこうとする姿」が描かれます。運命に抗うのではなく、”折り合いをつけていく方法”を手探りで探っていくとでも言ったら良いのでしょうか。
亀が甲羅に閉じこもって身を守ろうとするのではなく、柳のようにしなやかに生きていく・・・そんな感じです。
主役の二人も当初は自分の運命にあがこうとするのですが、周りの人たちと仕事をしていく中で、少しずつ彼らにもその”処し方”が浸透して、ガチガチに固まっていた心と身体が少しずつですが確実に柔らかさを取り戻していきます。
この辺りの演出が変にドラマチックではなく、静かに、しかし淡々と行われていくことで、逆に「こうして穏やかな強さを身につけていくのが、彼らの運命だったのかな」と思わせるものでした。
誤解を恐れずに言えば、むしろ「パニック障害やPMSになったからこそ手に入れられるものもある」とすら考えてしまうほどです。

マキャベッリの運命論。どんな運命に見舞われても、投げやりになってはならない。

この映画を見ている間、私の頭の中をもたげて来たのは「運命とはままならないものだな」という思いです。
PMSにしろ、パニック障害にしろ、なりたくてなる訳じゃありません。身体のちょっと不調の蓄積やストレス。私もそうです。少なくとも意識上では「物凄くストレスを抱えた時間が長かった」という訳でもなかったのに、何の前触れもなく突然過呼吸になり病院に運ばれました。今考えても「なぜあのタイミングで突然??」という疑問でいっぱいです。
そのように運命とは突然いたずらを仕掛けてきます。
そして、この「運命」というものを考える時、私の脳裏に浮かぶ言葉があります。それは15世紀のイタリアで活躍した思想家、ニコロ・マキャベッリの言葉。彼はディスコルシという著書の中で次のように言っています。

歴史全体を通じてみても、私は次のことのまごうかたもない正しさを、ここで改めて断言してはばからない。つまり、人間は運命のままに身をまかせていくことはできても、これには逆らえない。また人間は運命の糸を織りなしていくことはできても、これを引きちぎることはできないのだ。
けれども、なにも諦めることはない。なぜなら、運命が何を企んでいるかわからないし、どこをどう通り抜けてきて、どこに顔を出すものか、皆目見当もつきかねる以上、いつどんな幸福がどんなところから飛び込んでくるかという希望を持ち続けて、どんな運命にみまわれても、またどんな苦境に追い込まれても投げやりになってはならないのである。

マキャベッリもまた優れた外交官であり、思想家でもありながら時代に翻弄され、その本領を彼の人生の中で発揮することはできませんでした。しかし、彼の主著は、彼が政治の表舞台での活躍の場を失い、それでもなお祖国イタリアのために必死に自分にできることを模索したからこそ生まれたものだった。
そう考えると、彼もまた運命に翻弄され、表舞台から姿を消さざるをえかなかったからこそ、その思想を後世の思想史に残すことができたとも言えるのではないでしょうか。

運命に立ち向かわなくてもいい。

運命はままならない。
幸福の絶頂にいると思った次の瞬間、奈落の底に落ちることもある。運命のいたずらは誰にでも起こるものです。
そんな時「どんな運命にみまわれても、またどんな苦境に追い込まれても投げやりになってはならない」。なぜなら「運命が何を企んでいるかわからないし、どこをどう通り抜けてきて、どこに顔を出すものか、皆目見当もつきかねる以上、いつどんな幸福がどんなところから飛び込んでくる」かもしれないからです。

そして、投げやりにならないとは、必ずしも「正面から立ち向かう」ことを意味するのではありません。
運命が訪れるタイミング、周りの環境、あるいは自分の健康状態。さまざまな事情から、自分の意思だけでは立ち向かえない時もある。むしろ、無理して立ち向かうことで、かえって大きなダメージを負うこともあります。
多少の我慢ならしてもいい。だけど、自分の身体を追い込んでまで立ち向かうことはない。時には淡々と運命に処するという構えで臨んだって良いのです。
この映画の最後で語られるように、どんなに暗い闇夜でも必ず夜明けが来るのですから。

長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m


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