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ダブルバインド


01 電話


 更衣室を出る前に必ず、白衣の汚れはないか、裾はほつれていないか、ストッキングに伝線がいっていないかをチェックすることが、わたし、堺さゆりの日常になってしまった。

 ここ、百合ヶ浜総合病院の内科病棟の常勤看護師になって二年。

 看護師の節目は三年目・五年目・十年目でくると教えてくれたのは、わたしのプリセプター(指導看護師)だった沢井さんだったかしら。その節目で看護師を辞めたくなったり、職場を変えたくなったりするらしい。

 もちろん、わたしは看護師を辞めるつもりもなければ、病院を替える予定もない。

 沢井さんって必要なことは教えてくれないのに、こういうどうでもいいことばっかり教えてくれるのよね。

 鏡に向かって、心の中で、そう毒づく。

 別にわたしは沢井さんが嫌いなわけではない。わたしが患者としてここの病院に入院していた間、嫌味しか言わないわたしに、本当に良くしてくれたと思う。

 ――今にして思えば、わたしってすごく嫌な患者だったわよね。


 鏡の中のわたしの顔を見ながら、過去の自分を反省する。

 嫌味を言うのは日常茶飯事。態度だって激悪。
 相手は新人看護師だってわかっていながら、できたことを褒めずに、できなかったことを鬼の首を取ったみたいにあげつらう。

 看護学校に復学して、新卒でこの病院に就職して、三年目看護師になっていた沢井さんに一から仕事を教えてもらって、新人看護師がどれだけ大変な思いをしているのかを身に染みて理解した。

 もしわたしが沢井さんで、わたしみたいな根性の曲がった患者さんを受け持つ羽目になったら、短気な上に極端に走る傾向のあるわたしは、きっと病院を巻き込みかねない騒ぎを起こしていただろう。

 けれど、当時の沢井さんは黙って微笑みさえ浮かべながら、わたしの毒舌を聞いてくれていた。

 ――一部、聞き流していたところもあるみたいではあったけど。


 でも、あの荒んだわたしから逃げずに、鋭い言葉を真正面から受け止めてくれる人がいてくれたのは、初めての経験だったように思う。

 そう考えると、好きだとか嫌いだとか、そんな単純な感情以前に、沢井さんにはきっと勝てないんだろうなぁという、心地の良い予感めいた諦めのような感情が湧いてくるのだ。


 制服の確認の最後にいつもチェックするのは、胸元についた『堺』というプレート。
 汚れがないのを確認すると、何となく誇らしい気分になる。
 いつまでもこの気持ちを忘れずにいたいと心の底から思う。

 別棟になっている更衣室を出て、病棟の三階に上がる。
 階段の最後の段に足をかけた途端――。


「アホか、オマエは!!」
「はひーん、すみませーん!!」


 廊下にまで聞こえてくる大きな声。
 怒鳴りつけてるのは山之内さん。
 で、怒鳴られてるのは……沢井さん?


「オマエ、もうすぐ5年目やろ! ええかげんにせぇよ!」
「すすすす、すみません、すみません!!」


 沢井さんがペコペコと頭を何度も下げている。
 山之内さんは割とよく怒鳴る看護師さんではあるけれど、こんな風に頭ごなしに叱るような人じゃない。

 不思議なことに、いつも暴走しがちな山之内さんを止める役目を果たす大塚主任さんは、困ったような顔でふたりの成り行きを見つめている。

「朝から廊下にまで響くような大声を出して、どうかしたんですか?」

 ばっと沢井さんが顔を上げた。

「堺さん、ほんっとごめん!!」

 顔を見るなり、いきなり謝られて、事態を飲み込めていないわたしはただ面食らった。

「はぁ、何がですか?」

 今までずっとこの先輩看護師の言動に驚かされてきたのだ、今更、何を言われたところで驚きはしない。

「あの……さっき、15分ほど前かな、病棟に『堺さゆりさんはそちらにいますか?』って電話があったの」

 沢井さんの言葉を聞きながら、沢井さんは今日は明け(夜勤明け)なんだっけ、と理解する。
 いつも1時間ほど早く出勤している主任さんでもない限り、こんな早朝の病棟にかかってきた電話を日勤勤務者が取るなんてこと、ないもんね。


「でね、わたしったら、『まだ出てきてないけど、いますよ~』って答えちゃったの。そしたら、相手の人、電話を切っちゃって……」
「くぉの、アホンダラッ!!」

 山之内さんの雷が落ちた。

「相手が金融関係やったらどないすんねん!! お嬢の性格考えて、お嬢自身が借金こさえることは考えられんけど、お嬢の身内とか、お嬢の名前をかたって、とか、ナンボでも可能性はあるねんぞ! つか、個人情報保護って概念、頭にないんか、オマエは!!」
「うわぁんっ、すみません~~! でも、声の感じからして悪い人じゃなさそうな……」
「だからオマエはアホなのだー! 声音くらい、いっくらでも変えられるわ、このスットコドッコイ!! 世の中のみんながみんな、沢井みたくノーテンキやないねんで!!」
「ううう……すみません……」
「沢井さんも反省しているようだから、山之内さんもその辺にしてあげて」

 やっと主任さんが助け船を出した。
 主任さん~~と、沢井さんが情けない声を出している。

「ごめんなさいね、堺さん。そういうわけで、もしかしたら、あなたにとって知られたくない人に、勤務先を知られてしまった可能性があるの。これは病棟主任でもあるわたしの管理ミスでもあるのだから、もし不都合があったら……」
「ちゃうやろ、はつみさん! ソコは『次期病棟師長でもある』の間違いやろ」
「あ!」


 そうだった。
 大塚はつみ主任は、来年度から、めでたく大塚はつみ『師長』となることが決まったのだ。


「いえ、今はまだ『主任』よ。それに役職なんてどうでもいいの、わたしはこれまでと何ら変わらないのだから」
「いやいやいや、4月から新人さん入ってきた時に呼び間違いしたらイカンから、今から慣れとった方がええやろ」
「そうですよね! わたし、絶対、主任さんって呼んじゃいそうですし!」

 山之内さんの言葉に、沢井さんも続く。
 もういつもの通りの元気な声になっているあたり、本当に打たれ強い人なんだなぁと思う。

「はつみさんかて、呼ばれ慣れてた方がええんとちゃいます? 師長て呼ばれて『誰のことかしら?』てな顔されたら、それこそ示しがつきませんで?」
「そ、そうかしら……」

 恥ずかしそうに、主任さん……次期師長さんが俯いた。山之内さんの予想が当たりそうだと思ったのかもしれない。
 年上の女性にこんなこと言うのは変かもしれないけど、この人のこういうところ、ちょっと可愛い。

 少し和んだ雰囲気の中、わたしの袖がくいくいと引かれた。


「堺さん、ホントにごめんね?」

 上目遣いで見上げられて、苦笑しそうになった。
 沢井さんが反省してるのはわかってるし、わたし自身もこういうミスをしないとも限らないことを考えると、あまり強く責めるのは可哀想かもとか考えてしまう。

「いえ、夜勤明けで忙しい中での電話対応だったのですから、そういうミスもありますよ」
「おおっ、お嬢、どないした! 心広いやん、ヒューヒュー!!」

 混ぜっ返す山之内さんのことは溜め息と共にスルーして、わたしは日勤の準備をする。

 それにしても……一体、誰なんだろう?
 検温板にノートの新しいページをセットしながら考える。
 山之内さんの懸念するような借金をした記憶なんてこれっぽっちもないし、わたしの名前を出しそうな身内も、今はもういない。


「……みなさん、ちょっといいかしら?」


 主任さん、じゃなくて、次期師長さんが、申し送りのために集まったメンバーに呼びかけた。

「今朝、堺さんに発信者不明の電話がありました。先ほどの一連の騒ぎで、もうみなさん、既にご存じと思います。起こってしまったことを今更どうこう言ったところで仕方がありません。が、今後、もし堺さんへの不審な電話など何か問題がありましたら、わたしに教えてください。同じ百合ヶ浜総合病院内科病棟の仲間として、支え合っていきたいとわたしは考えています」

 パチパチと拍手が沸き上がる。

「よっ、それでこそ師長! 我らが大塚師長、万歳!!」
「……山之内さん、そろそろあなたに主任をやっていただきたいのだけれど」
「あひゃっ!? それだけはご勘弁を~!!」
「業務命令を出してもいいかしら」
「命令されんのは萌えるけど、どうせやったらプラスアルファが欲しいなあ」
「そうね、主任手当として、給与が少しだけ上がるはずよ」
「少しだけかいな!」

 詰所内のみんなが、どっと笑った。
 そんな風に、いつものように次期師長さんと山之内さんとのプチコントの後、夜勤明けの沢井さんによる朝の申し送りが始まる。
 元々、師長業務もこなしていた大塚主任が大塚師長になったところで、仕事や病棟の流れに変化はないのだろう。
 でも、この内科病棟自体、わたしの知ってる頃から、ゆっくりと変わってきてるんだから、山之内さんもそろそろ覚悟を決めて主任になってしまえばいいのに。
 そう思いながら、わたしは申し送りが終わる頃には電話のことなんてすっかり忘れてしまっていた。


02 来訪


 日勤業務の一番最後の仕事は、夜勤さんへの申し送り。
 今日も申し送りが終われば寮へ帰れる。

 ――といっても、寮へ戻ったところで、やることなんて勉強くらいしかないんだけれど。

 沢井さんの悪友としか思えない、今は外科で勤務中の藤沢さんには「趣味でも持てばいいのに」って言われるけど、今のところは、そんな暇はない。

 別に主任さん……じゃなかった、次期師長さんみたいに看護に人生を捧げたような生活をしたいわけじゃないけど、仕事の他に面白いと思えるものがないんだから仕方がない。

 それに、看護というものは奥が深くて、やればやるほど疑問が増えてゆくものだし、患者さんの接し方ひとつで自分の評価まで変わるんだから、これ以上のやりがいのある楽しい『趣味』もないと思う。

「およ、お嬢、相変わらず仕事、早いなぁ」
「ええ、おかげさまで」

 何か言いたそうなのを隠しもせずにニャニヤと話しかけてくる山之内さんに、サラリと返す。

「奥に藤沢からの差し入れあるで。今日はシュークリームやったで~」
「では、いただいてきます」


 いつも面倒なことを言ってくる山之内さんに、これ以上、何か言わせないうちに、そそくさと奥の休憩室に入った。

 藤沢さんは本当にマメな人で、大塚師長より一足先に師長になっていた外科病棟の小林師長の秘蔵っ子として、外科主任候補として訓練されている最中らしい。で、ストレス解消のためと、こんな風に外科だけでは消費しきれないほど、大量にお菓子を作っては、内科にもおすそ分けをくれる。

 一時はわたしも藤沢さんにお菓子を習ってみたけど、ヘマをする度に、笑われてしまうのが腹立たしくて、習いに行くのはやめてしまった。
 お菓子作りはわたしには向いてない。それがわかっただけで、藤沢さんに習いにいった意義はあるというもの。……とか考えてる。

 休憩室の冷蔵庫の中、ラップに包まれたシュークリームのひとつを手に取った。
 ぱりっとしたシュー生地。バニラビーンズの利いた、ふんわりとしつつも濃厚な味わいのカスタードクリーム。


 ――本当に藤沢さんはお菓子作りが上手だ。
 看護師をクビになっても、パティシエールとしてやっていけるんじゃないかしら。

 そんな失礼なことを考えていると、詰所の方から何やら不穏な空気が漂ってきた。

「堺さゆりの母ですが、さゆりの病室はどこでしょうか?」

 何故だろう。普段なら聞こえないはずの詰所前の声が、ドアを挟んだ休憩室にいるのに、こんなにクリアに聞こえてくるなんて。

「堺さんはもう退院されましたが、何か御用でしょうか?」

 落ち着いた声で、大塚次期師長さんが対応している。

「では、今はどこに……。まだここにいると、今朝、電話で伺ったんですが……」
「今、彼女がどこにいるのかは、たとえ親御さんであっても個人情報保護の観点からお伝えできません。申し訳ありません」
「そんな……」

 そうか。
 そういうことか。
 電話をかけてきたのは、あの女か。


 クッとのどの奥に笑いがこみ上げる。
 食べかけのシュークリームを置いて、詰所に出た。


「お嬢、今は出てくんな」
「いえ、大丈夫ですから」

 心配してくれてるんだろう、山之内さんが身体の陰に隠してくれようとするのを、やんわりと押しのけた。

「ここにいます」

 詰所の入り口、次期師長さんの向こうにいる女性に声をかけると、その人は訝しそうな顔でわたしを見た。

「さゆり……?」

 記憶のそれより、少し老けただろうか。

 ――そりゃそうか、あれから5年も経ったもんね。

 クッと皮肉な笑みが漏れる。

「何のご用ですか? もしかして、お金がなくなったんですか? もしそうなら、消費者金融にでも行ってください。金利とか貸し出し制限とかキツいとは思いますが、わたしとあなたはもう他人ですから」
「……堺さん」

 次期師長さんは困った表情をしている。
 もちろん、次期師長さんだけではない。わたしの母を名乗る見覚えのある女も、戸惑った顔をしている。

「何ですか、その顔は。わたしとあなたは他人でしょう? 生前分与もいただいたことですし、あの後、わたしは何一つ、あなたに迷惑をかけてはいませんよね?」
「そうじゃなくて……」

 何故、この期に及んでこんなところにやってきたというのか。
 何故、そんな泣きそうな顔をするのか。

 ――まさか自分こそが被害者だとでも思っているのではないだろうか。

「こーら、お嬢! そんな矢継ぎ早に言うたら、お母さんかて何も言われへんやろ? せっかく交通費使うて来てくれたのに、何も言わさんと帰すつもりか?」
「わたしの方は別に話なんてありませんし、聞くつもりもありませんから」


 山之内さんが大袈裟に溜め息をついたのが耳に障る。

 女は泣きそうな顔を取り繕いながら、背筋を伸ばして言った。


「……いえ、全て私が悪いんです。ただ、今日は個人的に大事なことを報せに来たんですが……日を改めて、の方がいいようですね」

 スッとメモを出す。わたしに、ではなく、次期師長さんに出すあたり、この女の姑息さが鼻につく。

「再婚することになりました。娘は私のことを母とはもう思ってくれていないと思いますが、縁を切ったとはいえ、私にとって、さゆりは娘ですし、……このお腹の子にとってはお姉ちゃん、ですから……」
「そうですか。再婚なさるんですね、おめでとうございます」

 師長さんが祝福の言葉を述べるのを、ぼんやりと聞き流す。

 再婚? だから何。
 もう他人なんだから、再婚しようが離婚しようが子供を産もうが、好きにすればいい。
 わたしには何も、一切、関係ない。


「いつでもいいので、さゆりには直接会って、ちゃんと謝りたいと思っています」

 耳を疑った。
 この女は何を言っているのか。謝って許されると思っているのだろうか。

「……さゆりには酷いことばかりしてきたので、許してはもらえないとはわかってはいるんですが……お腹のこの子が生まれた時、お姉ちゃんがいるのよって教えてあげたくて……」

 はっ、要は自己満足のために来たってわけね。

 つかつかと近寄って、次期師長さんが受け取ろうかどうしようか迷っていたメモを先に取り上げた。
 メモには携帯の番号らしき数字の羅列。

「ふうん」

 一瞬、この女の目の前で破ってやろうかと思った。

 が、そんなことをすれば、師長さんや山之内さんから大目玉を食らうのはわたしの方。

 次期師長さんの顔を立てる意味で、おとなしくメモをポケットに入れる。

「一応、預かっておきます。もう用は済んだでしょう? 仕事の邪魔ですので、どうぞお引き取りになってください」
「さ、堺さん……!」

 たしなめるような次期師長さんの声は、敢えて無視して背中を向けた。

「そ、そうね……」

 詰所前から、遠ざかる気配がする。

 山之内さんだけでなく、バイトさんも派遣さんも、やってきた夜勤さんも、誰も何も言わなかった。
 わたしが患者としてここにいた時にスタッフをやっていた人がほとんどだからわたしの家庭の事情はみなさんもある程度はご存じ、というわけだ。

 嫌な空気。

 退職率が低い職場というのは、それ自体が良いことではある。が、同時に、過去の知られたくないことまで知っているスタッフが多いという弊害もあるのだと思い知った。

 それにしても、あの女、本当に何しにきたのよ、腹の立つ!


「……しゅに、次期師長さん、申し送り、始めなくてもいいんですか?」

 そう言った後で、休憩室に食べかけのシュークリームを置いてきたことを思い出した。
 ……まあいいわ、今、食べたって、腹立たしさで美味しさを味わうどころじゃないだろうから。

「あ、ああ、そうね、ごめんなさい」

 次期師長さんが定位置につく。
 日勤メンバーと夜勤メンバーがデスク周辺に集まった。

「それでは、夜勤帯への申し送りを始めます」

03 余計なお世話


 食べ残しのシュークリームを食べて、寮に戻っても、しばらく勉強する気にはなれなかった。
 職場での空気を引きずっているんだろうか、わたしとしたことが情けない!
 気持ちを振り払うように、山之内さんに無理矢理押しつけられたマンガを開いてみた。

 ドドーンと見開きで全裸の女性同士が絡んでいて、思わず閉じてしまう。


「な、なに、今の……!?」

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