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ちあきなおみ~歌姫伝説~8 喝采の陰で

いつものように幕が開き 恋の歌うたうわたしに 届いた報せは 黒いふちどりがありました あれは三年前 止めるアナタ駅に残し 動き始めた汽車に ひとり飛び乗った ひなびた町の昼下がり 教会の前にたたずみ 喪服のわたしは 祈る言葉さえ失くしてた

つたがからまる白い壁 細いかげ長く落として ひとりのわたしは こぼす涙さえ忘れてた  暗い待合室 話すひともないわたしの 耳に私のうたが 通りすぎてゆく 
いつものように幕が開く 降りそそぐライトのその中 それでもわたしは 今日も恋の歌うたってる

 「喝采」(作詞・吉田旺 作曲・中村泰士)の主人公である歌手は、三年前のアナタとの別れを、人生のクライシス・モメントとして追憶し、今日も喝采を浴びるステージ上から、アナタの野辺の送りへと時の懸け橋を渡る。
 しかし歌詞の中では、アナタとはだれなのか、ついぞ明かされていない。
 推察してみれば、アナタとは親でも兄弟姉妹でも友でも、はたまた想像上の自分自身であるのかもしれない。それは聴き手が自由に置き換え、書き込むことができる空白部分である。
 ただ、「恋の歌うたう」にはじまり、「恋の歌うたってる」と結ばれていることから、恋人とするのが妥当であろう。

 一九七二(昭和四七)年、日本コロムビアからの発売当時、この歌はちあきなおみの"私小説歌謡""自伝歌謡"としてプロモーションされ、本人の実体験であるとして聴衆の興味をそそったが、これは嘘である。
 だが結果的には、『歌の主人公=ちあきあおみ』という営業サイドによるギミックは功を奏し、歌のドラマ性にこの図式を重ね合わせることで、さらにドラマチックな様相を呈し、「喝采」は大ヒットの道を歩むこととなるのである。
 聴衆も、このドラマの二重構造を半信半疑ながら許容しつつ歌の世界へ浸り、時の経過とともに、あまりにも切実なるちあきなおみの歌唱によって、もしかしたらホントのことだったのかもしれない、という意に趣を変えてゆくのだ。
 私は当時の、この"もしかしたら"というキーワードを辿るうちに、いくつか興味深い記事に出会ったのでご紹介してみよう。

 まずは「日刊スポーツ」紙面で掲載された音楽連載コラム、【歌っていいな】の中から、「喝采」誕生についての記述部分である。

69年(昭44)に20歳でデビューしたちあきさん(ちあきなおみ・古賀註)は「朝が来る前に」「四つのお願い」がヒットするなど順調だった。72年初夏、所属レコード会社の日本コロムビアのスタッフと、所属事務所「三芳プロ」の吉田尚人社長(当時32)が新曲について打ち合わせを行い、「前座歌手時代の苦労を歌にしよう」と決まった。吉田社長は当時、「自伝歌謡は日本にないので、このジャンルでちあきさんと歌謡史を書き換えたい」と考えていた。
 しかし、出来上がった作品はいまひとつで、詞も曲も作り直すことにした。吉田社長は、名優が酒におぼれ返り咲く演劇の裏側を描いた1954年公開のハリウッド映画「喝采」(グレース・ケリーがアカデミー主演女優賞を獲得)を見て感動したことを思い出した。「そうだ『喝采』をテーマにしよう」と即決、タイトルも「喝采」と決めた。
 ちあきさんは、5歳から芸能活動を行い、中学卒業後、有名歌手の地方巡業に前座歌手として同行していた。巡業は、歌と芝居で構成されることが多く、剣劇スタッフもいた。
ちあきさんはそのスタッフの1人で、岡山県倉敷市出身の当時23歳だった青年を兄のように慕うようになった。ところが、九州巡業中、この青年が急死したという知らせを受けた。ちあきさんはまだ15歳。泣きながら前座を務めた。
 吉田社長が、作詞の吉田旺氏にこの話をして完成したのが「喝采」だった。歌にする承諾を青年の実家に申し出たが、「亡くなった子を持ちだすのはやめてほしい」と父親から拒否された。ちあきさんも「歌いたくない」と抵抗したが、周囲からの説得もあり、72年9月10日、「喝采」は発売された。当初、"自伝歌謡"という興味が先行したが、ドラマチックな内容と曲調で、発売3カ月で100万枚を突破した。日本レコード大賞も、下馬評では小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」が有力候補だったが、「喝采」が大逆転で受賞した。

日刊スポーツ 1996年11月27日付

 この記事は、二〇二〇(令和二)年九月二十日、復刻版としてウェブ上でも配信されたものであるが、一読する限りにおいて、「喝采」は実話であるという気配が伝わってくる。
 また、二〇二〇年の「日刊スポーツ」では、作曲者である中村泰士の訃報を受け、吉田旺が「喝采」を回想している。その誕生秘話についての記述は次のとおりである。

吉田さんは、72年5月発売のちあき(ちあきなおみ・古賀註)の「禁じられた恋の島」で、初めて中村さんと仕事をした。そして、同年9月に「喝采」が発売された。吉田さんは「中村さんは曲づくりに対して、いい意味でとても貧欲な方だった。ちあきの作品をとても書きたがっていました」と振り返った。
 吉田さんは「歌い手をテーマにしよう」と当初、「幕が開く」というタイトルで「喝采」を作詞した。歌詞の「届いた報せは 黒いふちどりがありました」に、中村さんがかみついた。「死を歌詞に持ち込むことはない」「いくら別れても殺す必要はない」と、歌詞の変更を迫った。吉田さんは「私はこの部分が核だと思っていましたので、『ドラマチックにならない』と頑として拒否しました。中村さんと険悪とまでは行かなかったですが、かなり言い合いました」。
 中村さんの曲はすでに完成していたが、吉田さんの意向を尊重した中村さんは、曲をかき直した。演歌の曲調である日本固有のヨナ抜き音階で作曲した。ポップスでは珍しい音
階で、後に中村さん自身が「会心の作」という独特のメロディーを作り上げた。吉田さんは「僕の書いた詞をイメージして、曲を手直ししてくれました」と話した。
(文中のヨナ抜きとは、ドから始まる四番目のファと七番目のシを省いたドレミソラ音階=古賀註)

日刊スポーツ 2020年12月24日付

 この記事には、実話であるかどうかとの記述はなく、「喝采」の歌詞は吉田旺による創作といった感触を覚える。
 なお、この「喝采」を手掛けたディレクターの東元晃氏は、ちあきなおみデビュー五十周年を記念してテイチクエンタテインメントより発表されたアルバム「微吟」(現・音楽プロデューサー・東元晃氏監修)に関する、二〇一九年十月二九日付の「産経新聞」インタビューの中で、「喝采」については吉田旺と中村泰士と電話で意見を戦わせ、手直しを繰り返して完成させたとして、歌詞がちあなおみの実体験と重なるという伝説について、「僕らは、彼女の私生活など知らなかった」と振り返っている。

 事の真相は藪の中といったところだが、もしちあきなおみの実体験であるとすれば、「喝
采」は当人が抱えた悲しい傷を、かさぶたを剥がして再び抉り出すかのような歌である、と言えなくもないのだ。
 実は、私は九六年の「日刊スポーツ」の記事を当時目にし、ちあきなおみ本人にそれとなく聞いたのだ。返答はこうだった。
「歌はまったくのフィクションですよ」
 そして、記事にある有名歌手とは橋幸夫で、「橋さんはどこにいても女性にモテモテでし
たよ。まあ、黙っていても女性がほっとかないわね」
と当時を懐かしんでいた。
 それはともかく、ちあきなおみの言うフィクションとは、たとえ悲しい想い出が投影されていたとしても、歌はあくまでも作品である、という意味である。またそうならなければ、私小説歌謡とは言えないのだ。

 たしかに、九六年の記事にあるように、吉田旺の頭の中には吉田社長から聞いた話があったのかもしれない。しかし、作詞家にとってそれはあくまでもひとつの素材であり、創作をする上で、事実は形を変えながらより劇的な高みへと軸足を移行させてゆくものである。
 「死」を核とするのは、虚実を重ね合わせたのではなく、虚構の中にもうひとつの虚構を組み立てようとする、吉田旺のプロフェッショナルなセンスであるという気がするのである。
 三つの記事を照合してみると、急死した剣劇スタッフの青年の実家に申し出たのは、「喝
采」ではなく、企画段階での話だったのではないか、という推測を打ち消すことができない。
ついては、ちあきなおみの実体験とされたのは、出来上がった「喝采」から巻き戻し、劇的
な輪郭を与えられた事実、戦略上の逆後付けだったということであろう。
 また、ちあきなおみの「歌いたくない」という言葉は、歌をではなく、その戦略に乗せられることにアレルギー反応を起こしてしまう、歌手としての主張であると思われる。

 やがて「喝采」は、実話かフィクションかという、虚実のせめぎ合いへの興味を頭から追いやり、聴衆は歌の中のドラマを追い求めてゆくようになる。
 しかし、歌手としての実存を賭けるように、「喝采」を実体験してゆくちあきなおみの姿は、いつまでも頭を去ることがなかったのである。
               つづく





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