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ちあきなおみ~歌姫伝説~34 復帰なき理由・中篇

 おそらく、ちあきなおみ「復帰なき理由」のひとつに、文豪・芥川龍之介の自死を重ね合わせて見ているのは私だけであろう。
 だが、ちあきなおみが断歌を決意する局面において、〝ぼんやりとした不安〟がなかったとは言い切れまい、と思うのである。
 芥川龍之介氏は明治・大正・昭和を生きた小説家であり、その自死の原因には諸説あるが、私なりの見解としては、文学に対する真摯な姿勢というものである。詳しくは本執筆の意図と異なるのでここで述べることは避けるが、ひとつだけ言えることは、自己の帰趨への迷いというものではなかったであろうか、と思われる。
 私はちあきなおみの断歌という事実に、このことと同様の思いがあったと強く感じるのである。
 前述した、ちあきなおみの途にさらに深く分け入れば、その人生はまさに帰り着くところの喪失によって培われたものであったと推察できるのである。
 この途を振り返れば、重要事項としてまず、ちあきなおみは幼少期、父親の愛情を喪失し、家庭不和を経験している。このことは、その後の運命を決定づけていると言っても過言ではないだろう。精神分析論であるが、一般的に、父親の顔をほとんど知らずに育った子供にとって、母親に同化し、可愛がられたいという願望を抱くのは当然のことである。それは、母親の期待に沿えなければ、どこにも帰る場所を失うことになるためであり、自らの内的世界を犠牲にしてでも、仮面を覆い唯々諾々と母親好みの子供役を演じるのである。
 ちあきなおみもまた、そのような環境の中で母親に喜ばれるために、早くから歌というものをその身体に染み込ませていったのである。生まれながらに授かった天才的な才能は、上手すぎる歌唱力ゆえにデビューが遅れたとされる逸話や、デビュー三年目にして歌謡界の頂点に立つといった史実を残し、まさに歌手として〝選ばれし人〟であったと証明される。
 しかしながらその陰で、母親への愛情、言い換えれば孝行心といったものは、経済的な意味も含めて歌手としての桎梏でもあり、自由な表現者としての精神はその殻を破ることができない。そこで、郷鍈治との邂逅を境に、自らの歌へのスタンスと相まって、精神的圧力の桎梏を打破し、ちあきなおみ路線をひた走ってゆくのである。
 ここで見落としてならないのは、歌手・ちあきなおみの解放への扉を開いた、夫となりプロデューサーでもあった郷鍈治の立ち位置である。ふたりの家庭での生活スタイルがどのようなものであったかはわからないが、私の体験から述べれば、郷鍈治は明らかに、歌手としてのちあきなおみにその眼差しの大部分を向けていたものと思われるのである。
 私が郷鍈治から受けた、ちあきなおみの現場マネージャー兼付き人としての訓示内容は、本人が歌だけに神経を集中することができる事細かい注意事項だった。そこには、本人へ接する際の加減や話の内容、ステージ前の楽屋で過ごす時間の室内温度や湿度などの環境にまで及んでいた。中でも私が驚嘆したのは、郷鍈治が、ちあきなおみが現場での仕事を終えて帰宅する時間を見計らって、本人にあれこれと夫である自分に気を遣わせないようにと、家を空けることがあったことだ。それは、ちあきなおみ路線における歌の表現に対して、家庭の匂いというものが諸悪の根源であるということを承知しているからであり、あらゆる分野の天才に見られるように、アーティストとは家庭には不向きであるという、その精神性を最大限理解してのことであろう。
 そこで郷鍈治は、ちあきなおみにまつわる諸々の現実的問題を一手に引き受けていたのである。このことで、ちあきなおみはある程度の社会的折衝を免れ、歌手として、自由に、歌のみにその精神を高めてゆくことができたことと思われる。さらに言えば、恵まれた環境を得て、歌への精神だけが、現実という一階から二階へと上っていってしまったのである。そして、そこからどこへ向けて歌っていたのかを考えるとき、ちあきなおみの言葉が脳裏によみがえってくるのだ。
 それは、なぜもう歌わないのか、と問うた私に返された、「復帰なき理由」ともとれる、きわめて注目すべき言葉だった。

「私は、郷鍈治が喜んでくれるから歌っていた」

 この言葉をプレイバックする度に私が思うのは、最愛の母親を失った後、それがちあきなおみ自身にとっての唯一の喜びであり、幸せでもあった、ということである。ひとりの人間に向けて歌うということはどういうことなのか。
 それは、作家がただひとりの人間に向けて書く、ということと同じ種類の訳を想起させる。それがなんであるのかは私のような凡人には計り知れないが、ファンのために歌うような歌手よりも、愛する人のためだけに歌う歌手のほうが、はるかに人間的な匂いを私は感じるのだ。歌とは、歌う人間のすべてが否が応でもあらわれてしまうものである。ちあきなおみの歌に人間の迫真性を感じ、引き付けられるのはこのせいであろう。
 しかしながら、この幸せを問題としない時間は長くはつづかなかった。それは一九九二(平成四)年、郷鍈治との死別によって、歌手・ちあきなおみの精神は二階に取り残され、個としてのちあきなおみの心と肉体も、帰趨を喪失してしまうのである。
 ここでちあきなおみは、ぼんやりとした不安に直面したのではなかったであろうか。
 その不安をいくつか突き詰めるならば、まず、ある一部で囁かれる、ちあきなおみは歌手として完璧主義者ゆえにといった、年齢的な歌手としての力量の問題では絶対的にあり得ない。天才的な歌唱力を有する歌手が、歌えなくなるということは、ないのだ。
 これは私がちあきなおみの身近にいて感じ得た推測であるが、おそらく、自らの才能への自信に対しての不安ではなく、郷鍈治のいない、自身を取り囲む状況といったものが大きく関与していたと思われる。それには、側近だった私も含め、その周辺にいた人間も例外ではないだろう。ちあきなおみにとっては、郷鍈治だけが歌うことの根拠であり、その代役はだれにも演じられないのである。このことは、精神的な意味合いにおいての、歌手としての美意識の衰退に繋がってゆくのだ。
 ちあきなおみの歌に対する真摯な姿勢から見れば、われわれのようなスタッフが持ち込む日常的現実上の価値判断や社会的基準は、厳しく言えば芸術至上主義上においては邪悪であり、煩わしいものなのである。ところが政治的折衝は別である。やはり、その楯となり歌手としての方向性を示した郷鍈治が不在とあっては、自らが外部との折衝を避けることは不可能となり、前記した本人の言葉、「自分が好きな仕事しかやらなくなり、同じことの繰り返し」となってしまい、どう歩いていいのかさえわからない。まずそのことへの不安が生じたのではないだろうか。
 このことにさらに思い巡らせ、ちあきなおみが郷鍈治との関係性によって情操を深め、作品に息吹を吹き込んでいったことに思い至ると、現実世界に愛する男を失っては、自らの歌にもっとも大事な色香を表現し切れない、という懸念が思い当たるのである。

「私はもう、幸せを感じることはないでしょう?」

 と、同意を求めるかのようにちあきなおみに問われたとき、私はふたりの関係性を知っていたがゆえに、その決意を打ち返す言葉を紡ぎ出すことがどうしてもできなかった。
 たとえ、男女の恋や愛の歌ではなくとも、ちあきなおみの歌のフレーズや行間にどこか芳醇な色香が漂っているのは、男を愛しているという美的な情感があるからであろう。だが郷鍈治を失い、その気持ちを欠如したまま歌えば、作品から色香が消え失せ、歌は作者が創ったままに在るがままで、自身の歌として成ることはない、と直感的に予覚してしまった・・・・。
 それは、ちあきなおみではない、と。

 そしてもうひとつ・・・・。
               つづく

 

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