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ちあきなおみ~歌姫伝説~40 悲しみの果てに

「裸の心」の旋律に乗せ、私のちあきなおみへの恋心は、現在と過去の地平を彷徨っていたようであるが、しかしそれはほんの一瞬の夢であったようにも感じた。
 ふと我に返り視界がクリアになると、頭上からのサスペンションライトだけがあいみょんを白み染めて射ち、ステージ上の淡い光の円の中、闇夜の霞におぼろげに浮かぶ花のように、抑え難き溢れる想いを自らの恋で彩る歌手がそこにいた。その、微かに眼で捉えることのできる姿から発せられる歌声は、一句、一音節と、魂を刻み込むように客席へと伝わってくる。

「きれいだ・・・・」
 私は思わず口にした。それは歌手の、生命のしずくというものであろう。それを直接浴びることができるのが、ライブの醍醐味であるのだ。
 
 昨今、SNSなどでよく見るのは、「ちあきなおみのステージを一度でいいから生で観たかった」という言葉である。これは、ちあきなおみ後追い世代、言わば新世代のファンによる正直な実感のあらわれであろう。昭和歌謡ブームにある現在、YouTube動画などを覗けば必ずちあきなおみに辿り着く。そこで映像視聴だけでは満足することができないのは、ちあきなおみの歌の中にある〝なにか〟を敏感に嗅ぎ取っているからである。それは定義できるものではなく、歌の詞でも曲でもなく、ちあきなおみが創出する人間の心緒というものではないだろうか。そこに聴き手が創出する心緒を交錯させて理解し合い、肉眼では捉えられない世界を仮構し、現実世界から離れ、ともに人間の心を感じ歌うことによって、ドラマチックな世界へと陶酔してゆくことができる。なにかとは、昨今の流行歌にはなかなか見当たらない、ちあきなおみの歌の中に息づいている、人間の〝生〟というものであるのかもしれない。
 その息づきを身をもって体感したいという願望は、一曲の歌と対峙したとき、ただはしゃいでグルーヴするだけでは駄目なのだという、平成・令和時代の歌謡ライブシーンからの反映と言えよう。
 そこには、かまびすしく言われる「なぜもう一度歌ってくれないのか」という、ちあきなおみへの反発心にも似た感情も潜んでいるであろう。今日の昭和歌謡ブームという事象の頂点には、紛れもなくちあきなおみという存在が生々しくその一角を占めている。その圧倒的な存在感は、姿をあらわさないゆえにさらに突出し、歌手活動停止から三十年が経過しても、今なお復帰へのラブコールが絶えないのも無理はないという勢いである。
 ちあきあおみの歌に対する興味と渇望と、復帰への諦念を覚えながらも、それでもちあきなおみの歌を聴きつづけるファンが後を絶たないのは、ちあきなおみの歌が、時代を超越して、歌の中に収まり切れない人間の魂を伴っているからに他ならない。

 しかし、ちあきなおみが復帰しない以上、その歌を生で聴くことはできない。畢竟、私たち聴者は、過去に歌われた歌を立ち尽くしながら聴くことしか叶わない。ならば、その耳を傾けた先に歩を進め、じっくりとちあきなおみの魂の声を受けとめてみよう。そこには、これまでに心づかなかった新しい発見や、聴けば聴くほど人生味のある、時代のトレンドなどには太刀打ちできない人間の根源的な匂いや、心の機微というものに触れることができる岸辺があるのだ。それは、聴者が、もうどこにも行かないちあきなおみといつでも出逢うことのできる、静かで、色褪せない、完璧な世界なのである。それは、復帰云々という観点から歌を照らすだけでは、あまりにも惜しい世界だと思うわけである。
 なぜなら、その世界の背後に、人生の伴侶である郷鍈治とともに、敷かれた商業主義レールからはみ出し、過去のなぞりではない新しい角度から歌魂を歌謡界へ飛散させ、自らを、歌を、問いつづけ戦った歌手の変遷の歴史、ちあきなおみ路線の意志と、ちあきなおみ伝説の意思をも感じることができるからだ。
 そして、歌手活動停止から三十年にも及ぶ沈黙の真意が、引退ではなく、レコードやステージを超越し、その姿を幻影へと転位させ、歌謡界への永遠のアジテーションをはらんだ、きわめてちあきなおみらしい流儀での復活の連続であると認識することができるからである。
 ちあきなおみ路線が生み落とした〝歌姫伝説〟とは、郷鍈治とちあきなおみの愛の物語の別称であり、その愛は歌とともに、われわれの心の中に今も脈々と生きているのである。

岸辺に立ち、耳を澄ませば、沈黙の声が聞こえる・・・・。

 人生は、喜びや幸せ、いや、辛く悲しいことのほうが多いはずである。だれしも人は、抱きしめ合い、心を摺り合わせ、相ともに涙することでしか慰められない悲しみを持っている。
 歌はそんな悲しみの寄り辺なのだ。そして、どのような悲しみの波頭に突き上げられようと、ここに今、確かに自分は生きているのだと感じさせてくれるのが歌なのだ。

「歌を聴いてください」

 なによりも悲しみを大切にして歌ったちあきなおみは、いつもそう望んでいるのだ。

「私は自分の想いを、歌でしか伝えることができない。だからこれからも、みんなの心に残る歌をうたいつづけていきたい!」
 
ステージラスト、あいみょんは泣きながらファンにメッセージを送った。私流に見れば、現在の歌謡シーンの中で、トップを走るアーティストの口から出た業界への〝逆下克上宣言〟とも思える言葉に、歌謡界に一条の光を見たような気がした。
 会場を埋めるファンから、大歓声が拍手喝采となってステージに送り返された。

 日本ガイシホールからの帰り、JR笠寺駅へと向かう人波から外れたゴッド(友人)と私は、時短営業によりどこの酒場も閉店していたこともあり、コンビニのイートインスペースで無言でコーヒーを啜っていた。
 ライブの興奮冷めやらず、歌の余韻が身体中を支配していたが、その中身は聴き手によって千差万別、ふたりとも画一的に朝まで夢中で語り合えるほど若くはなく、それぞれの人生の中に我流の幻想を抱いたまま、歌と人生を紡ぎ悦楽を味わっていた。

「歌っていいなあ・・・・」とだけ言葉を交わし、私はゴッドと別れ、しばらくの時間、余韻の中で想いを巡らそうと名古屋港へ向かった。
 夜の港というものは、それだけでドラマチックでいいものである。
 私の視線の彼方に、ハーバーライトが遠く夜の海をうっすらと照らし、その淡い光の中にぼんやりと、マイクを片手に遠くを見据えて歌う、あの、ちあきなおみの姿が見えるようだ。そこに、今夜のライブのラスト、あいみょんが言い放った〝心に残る歌〟という言葉が被さって聞こえてくる・・・・。
 ふいに私は、ちあきなおみの歌手としてのルーツが見えたような気がした。それは今夜のステージでも見た、あの、サスペンションライトが照らす淡い光の円の中にあるのではないだろうか、と。その光の円の中は、外界から隔離され、動いても追われる、開け放たれているようでありながら閉ざされた世界・・・・。その閉ざされた世界こそ、四歳で初舞台を踏んだちあきなおみの、少女時代のただひとつの遊び場であり、その後、そこから遠くに見据えた幸福という幻影に向けて歌った歌手の、宿命たる孤独な居場所だったのだ。
 ちあきなおみは、紛れもなく現在進行形淡い光の円の中に立ち、われわれはその見えなくなりそうな儚き姿を、いくつもの心に残る歌を道伴に追っている。ちあきなおみ路線を継承し、ちあきなおみ伝説を伝承することができるのは、その姿を見つめつづけるちあきなおみファンに他ならない。
 そして、ちあきなおみが今も遠く仰ぐ天空から浴びせられる一筋の光は、不世出の歌手を生み、守り抜いた、母・ヨシ子と、郷鍈治の、歌姫を照らすいつまでも変わらぬ愛情なのだ。

 風が吹いた。私はトレンチコートの襟を立て、港を背に歩き出した。風の音は空気の波を揺らして緩やかに高鳴り、やがて、聞き覚えのある声へと変じていった。

「あ~あ~・・・・ああ~ああ~・・・・ああああ~!」
              
つづく
           


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