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雑記:金にならないのに何故書くのか

毎日毎日文章を書いていると、呼吸するように言葉がポンポン出てくるようになる。

わけもなく。
書くためには、読んでいて面白い発想や感情がないか、必死に自分の頭の中を探していくこととなる。

なぜ書くのか?
という質問に対しては、いくつかのヨソ行きの解答を用意することが出来る。
思考の整理に繋がる、言語化能力が上がる、アウトプットすることで普段自分の中にあった感情を再確認できる、ついでに読者を楽しませることができる、定期的に自己開示することで、自然と上がり続けるプライドを軽減することができる、現時点の自分の環境や思考を備忘録として残すことができる、
そんな所だろうか。


ただし、それらの解答はいずれも本質的ではないように感じる。
「お前の好きなものは何だ」と聞かれ、単に「ハンバーガー」と答えるようなものだ。

というよりは、
「肉・野菜・炭水化物が全て入っていて栄養価のバランスが良く、かつそれらが層となっていて食感を楽しめるもの。
具体的にはハンバーガー、餃子など」
と答えた方が本質的だろう
少々うるさいが)


本質的にはどうだろうか。

自分にとって「書く」ことの本質は、「葛藤すること」に他ならない、と思う。

本来、言葉では無い事実、思考、感情を言葉として変換する為には、少なからず嘘が交じることとなる。誤差と言ってもいい。
これはどんなに言葉による描写が上手くても、言葉が概念である以上は必ず起こってしまう。
「楽しい」と書いても、自分が今感じている楽しさそのものを、読み手が同様に感じることは出来ない。
自分は言語化という作業が好きだが、間違っても「自分の感情を正確に言語化できる」なんて言えない。それは言語化という武器に振り回された自信過剰の戯言だと思う。

言葉にする時、必ず嘘は生まれてしまう。意図してつく嘘は論外だが、伝わりやすいように自然と盛られてしまうのが言葉の性質なのだ。だから、書く為には多少の嘘を許容できる一種の勢いが必要だと感じる。
「これはどこまで生の感情なのだろうか、自分に嘘はついていないだろうか、格好つけてないだろうか」
そんなことを不安に思って、表に出すか胸にしまうか葛藤しながら、書いている。


他にも葛藤はある。自分の発信したことが運良く「ウケて」しまった場合、一過的な評価によって自我が肥大化してしまうことへの恐怖だ。過去の自分や周囲の人間が見たら「調子に乗ってる痛いやつ」と思われる、そんな人格や振る舞いにはなりたくない。
任天堂の故・山内社長が「失意泰然、得意冷然」と言っていたけど、上手くいっている時に謙虚になるのは本当に難しい(多分誰しも経験があるだろうが)
今自分がそこそこ楽しく生きていられるのは、運が良かったり周りに恵まれているというだけだ。なのに、つい自分の実力ゆえに今の人生があるという「自負」を持ってしまう。これは非情に危ない。
だから常に、自分なんて大した事ないって再確認する必要がある。色々行動して、挑戦して、8割位は上手くいかなくて、自らの才能の無さに絶望する。でも2割くらいは小さな芽が出て、何年後かに「あの時やっておいて良かったな」って過去の自分に感謝する。
そしてたまに、道化みたいに無意味なことをやったりする。それで当然何も起きなくて、まあこんなもんかなって納得する。


逆説的に、書くという作業を通して、葛藤することができる。心の葛藤とはヒリヒリする自分との闘争だ。
この文章を出そうかな、楽しんでもらえるかな、良く見られたいと偽っていないかな、未来の自分が読んでて楽しいかな、
そんな不安や迷いを打ち切って、えいやって思い切って投稿できた時、心地良い疲労と満足感を得ることができる。
もう50を超える記事を書いていて、書くのが大変だと思ったことは何度もあるけれど、書いていて楽しくないと思ったことは基本的に無い。
(一度も無い、と言いたかったけど、就活中に病みながら書いた記事とかあったので、、もう消してしまいましたが)

自分にとっては書くことが一種のエンターテインメントだ。だから、何か思いついたことがあったら手軽に発信できる場があることに感謝しています(noteありがとう)
毎日投稿はあと一週間続くけれど、それが終わっても、人生を通して書くことには向き合って行きたいと思ってます。

とりとめの無い文章でしたが。
それではまた。


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