Sixth memory (Sophie) 06
「……まさかあの噂が本当だったとは……あうっ」
脳内の処理が、限界に達し、ボクはその場にばたんと倒れた。
「へぇ~団員内の噂になってたんだ~」
アインさんは、倒れたボクの頬をツンツンとつつきながら、実に楽しそうに笑っていた。
天井をみつめながら、ふと思ったことがある。
アインさんは、もしかしたらずっとさっきの話を誰かに話したかったのかも知れない。
フィリアさんとの秘め事を、自分だけでなく誰かに打ち明けたかったのかも知れない。
……悪いことをしているわけではないが、団長がまだ正式入団したばかりの人間と特別な関係を持つだけでなく、それを条件に正式入団させるなんて、バレれば、団長権限すら剥奪されてもおかしくないほどにとんでもないことなんじゃなだろうか。
正式入団するのに、必死になっている団員の努力を全て無にするような、実に自分本位のやりたい放題だ。
でも……それはアインさんがフィリアさんを正式入団させるための自分への口実で……きっと、彼の実力や想いの強さが決め手になったに違いない。
「可愛かったわよ~あの頃のフィリアは、まだ不慣れだったから……あたしが、手取り、足取り、教えてーー」
「手取り!? 足取り!? そっ、それって!!!」
あまりのとんでも発言に、90度直角の姿勢で機械のように腹筋の力が反射的に発動し起き上がる。
「ソフィ、落ち着いて。勘違いしないで欲しいのだけど、手取り足取りっていうのはあくまでも自警団内の訓練でのことよ」
「です、よね」
アインさんが、顔を真っ赤にして、固まっていたボクを見てケラケラと笑う。
少し考えればわかっていたはずなのに、彼女の雰囲気や言い方で、完全に勘違いしてしまった。
ボク自身ではなく、彼女の……アインさんの望む思考にさせられている。そうなれば、ボクのものである考えは彼女の思うがまま、完全に彼女の支配下だ。
フィリアさんが去り際、ボクに小声で言い放った『アインに気をつけて』の意味とは、このことだったのかも知れない。
人心掌握、アインさんは実力はもちろんだがそれ以上に人の心を掴む才能に溢れており、自警団で一番恐ろしい人だと言う人も少なくはない。
待てよ……ボクはいつから彼女の思う通りにされていたんだ? フィリアさんとの話を聞いたとき? フィリアさんが出ていった後? いや、既にこの部屋に入った時にーー。
頭で考え始めた途端、今までのアインさんの話すべてが本当のことを言っているのかも怪しくなってくる。そして、一度疑い出した途端、今までのアインさんの発言すべてが嘘なのではないかとさえ思えてきた。
つまり、ボクの正式入団は……フィリアさんも実は、グルで、二人してボクをーー。
考えていた結果が最悪な方向に向かうその瞬間、アインさんのデコピンによりボクの頭の中の考えは消えていった。
「いったぁ……い」
「考えることは悪いことではないけれど、その結果自分にとって良くない結論を出すのは良くないわね」
「えっ!?」
「いい、これだけは信じていいわ。あなたは、あたしの団の団員になったし、フィリアはそのために今、一人、頑張っているわ」
心を読まれたのかと思った。でも、そう言ったアインさんの目は嘘をついていないとボクは思えた。
だって、こんな透き通った綺麗な瞳をボクは知っているから。
父さんや母さん、そしてフィリアさんがボクに時折向けてくれる。真っ直ぐな純粋な瞳。
ボクは急にさっきまで疑っていた自分が恥ずかしくなった。ボクは、自分だけじゃなくアインさんやフィリアさんまで巻き込んで……勝手に思い込んでいた。
そんなボクがなんだかとても嫌だった。
「……やっぱり似てるわね。フィリアに」
「えっ?」
アインさんは、そう言って、近くの椅子に腰かける。
「真面目で、誠実で、それでいて自分に自信がない」
「あのっ……ボクは……」
「今は、それでいいわ。でも、忘れないで、あなたを信じているのはあなただけじゃない、自分を疑いたくなったら、あなたを信じている人たちを信じてあげて」
自分を信じてくれる人を信じる。その言葉は、ボクの胸に深く深く刻まれたような気がした。
その瞬間、ボクにまとわりついていた嫌なもやもやしたものはどこかに消え去り、とても晴れやかな気持ちになっていた。
ふと、何故か視線がアインさんのいるテーブルへと向いた。
テーブルには、冷めきってしまったコーヒーと食べかけのパンが置いてあった。
アインさんは、ボクの顔を見た後、冷めて冷たくなったコーヒーを一口啜り、満足そうな表情を浮かべていた。
「ねぇ、ソフィ、あなた、コーヒーは好き?」
唐突に聞かれ、簡単な質問のはずなのにボクはその質問にとっさに答えられなかった。
何故、今、いきなりそんなことをアインさんは聞いたのだろう?
そんな、ボクの困った顔を見てアインさんはまた満足そうに笑みをこぼす。
……そして、確信した。この質問に深い意味はない。ただ、純粋にボクが見た目が子供のようだから飲めるかどうかの確認をしているだけだ。
「嫌い、ではありませんけど………」
「そう。大人ね。ソフィは、それじゃ、どうぞ」
いつの間に入れたのか、ボクの方へなみなみと入ったカップをアインさんが手渡してくれる。
大人ね、、とバカにされているが、そんなことにいちいち反応していてはまた彼女のおもちゃにされてしまう。ボクは平気なフリをして彼女の向かいの席へと座った。
湯気の立ったおいしそうなコーヒーだ。アインさんが湯気の立つコーヒーを、ミルクもシュガーも入れずに美味しそうに飲んでいた。
「……ソフィは、ミルク派? それともシュガー派?」
「えっ!?」
フフフと笑いながら、アインさんはこちらを見ている。
「ぼっ、ボクは何も入れずとも飲めーー」
既に心を見透かされていたのだろう。
ボクのつまらない強がりを全部聞く前に、アインさんが立ち上がり、棚から小さな小瓶を取り出してボクの前に置いた。
「これは?」
「あいにくだけど、シュガーもミルクもここにはないの。ただ、フィアレスの蜜ならあるわ。これで、我慢してもらえる?」
「フィアレス!?」
思わず大きな声を上げてしまった。その様子にアインさんはまたクスクスと笑っていた。
フィアレスとは、正式名称及び学科名はフィアレス・オン・フィアレス。
この地域ではあまり見かけない赤と白のコントラストが美しい花、春から夏にかけて、その花を咲かせ、フィアレスの咲く地域は観光名所の一つになることもある。
めしべから花を絞ることでのみ採取できるその蜜はねっとりとしていて、やや黄色味がかっており、採取してから外気に触れると1時間程度でその風味を落としてしまうので、フィアレスの蜜の商品化はとても難しいらしい、まさにスピード勝負の素材だ。
採取後、外気に触れない特殊な密閉型のビンに詰め、しっかりと蓋をする。この時、蓋の締め方が僅かでも緩ければ、空気が入り込み途端にその味は劣化しポマースフィアレスとなる。
採取から一定時間、太陽光と外気から遮断する事でそのフィアレスはエクストラバージンフィアレスとなる。
一旦熟成すれば、適切な温度で保存すればしばらくは風味が落ちる事もない。
劣化したポマースフィアレス自体も食べられない訳ではなく、安価で売られている。世間的には純度の低いポマースフィアレスが本物のフィアレスの味だと思い込んでいる人も少なくはない。
ただポマースフィアレスは、エクストラバージンフィアレスの蜜とは用途が少し異なり料理との相性がとても良い。
エクストラバージンフィアレスはその強い甘みととろみにより、味の調和を乱す為、他の料理と組み合わせることが難しいが、ポマースフィアレスは柔らかな甘みと僅かに生まれた苦み、青み、臭みなどの雑味が含まれる。
それ単体だけで食べられることはないが、様々な料理の隠し味で使われたりもする。
特にホッチョ・ムーテルと呼ばれている料理には必須らしい。
一体どんな料理なんだろうか?
ボクも食べたことはまだ一度もない。
だが、本物のエクストラバージンフィアレスを知ってしまえば、もうそれ以外ではなかなか甘みに関して満足はできない。
他にはないほどにとても甘く。子供なら一度食べればみんな大好きになる味だ。
大人になって初めてフィアレスの真の美味しさに気づく人も少なくはない。
ただ、自分で買おうとして初めて知ったことだがポマースフィアレスは市場に溢れているがエクストラバージンフィアレスは本当に手に入らない。
仮に手に入れられたとしても、小瓶に入ったほんの少しのものだ。
昔、父さんが一時期、長い間家を空けていたことがあったけど、帰ってきたときのお土産でこのエクストラバージンフィアレスを持って帰ってきていた。
もしかしたらフィアレスを手に入れるために探し回っていていなかったのかも知れない。帰ってきた翌日からフィアレスが棚に並んでいたような記憶がある。
あれは、買ってきてたのではなくて、もしかしたら、作っている工場まで出向いたのかもしれないと今は思う。
ボクも子供のころは大好物で、そのまま蜜を舐めたり、時には、フィアレスの蜜のたっぷりかかったパンケーキを食べていた。
母さんの作るパンケーキは片面をこんがり焼いて、じゅーっという音がするまで焼き色のついた下のパンケーキに、少しふんわり感の残る生焼けに近い上のパンケーキ。
中は、しっかりと火を通してはいるがふわふわ感の残るパンケーキ。
そのふわふわの秘密。実は生地にもポマースフィアレスが混ぜ込まれていた。
どういった作用でそうなるのかはまだ解明されてはいないらしいが、ポマースフィアレスはふわふわ感を出す場合において、とても必要なものであったりもするようだ。
そんなダブルフィアレスを用いて作られた二段重ねのパンケーキ。
加えてカップにたっぷりと入ったミルクの上にこれまたたっぷりのフィアレスの蜜をかけて飲むフィアレスミルクをセットにして食べるのが子供の頃の最高の贅沢だった。
……いや、今もあのパンケーキは最高の贅沢だと言えるくらいに大好きだ。
……そういえば、気づけばしばらく食べていないなぁ……母さんのパンケーキ……。
そんな、フィアレスに感動と感傷していると、アインさんが、引き出しからスプーンを取り出し、小瓶を開け、フィアレスの蜜をすくいそのまま口へと運んだ。
「うーん。やっぱりおいしいわね」
アインさんが幸せそうな笑みを浮かべる。それはまるで、子供のようで。その無垢な笑顔を見て、その表情に驚いてしまった。
アインさんが、フィアレスを食べてあんな表情を浮かべるなんて正直意外だった。
「良かったら、どう?」
アインさんが、小瓶をボクに差し出す。ごくりと思わず唾を飲み込んだ。もう今すぐにでも口の中にフィアレスを入れたい。
「あっ、それとも—――」
アインさんが小瓶を自身の方へ戻し、スプーンでフィアレスの蜜をすくい、ボクの口元に持ってくる。
「あたしが食べさせてあげようか?」
「いっ、いや! あっ、あのっ!! そのっ!!!」
「もう、その辺にしておいてやってくれないか? アイン」
フィアレスが食べたい気持ちと、アインさんに食べさせてもらうという状況に動揺し、再び脳が処理限界に達そうとしたその瞬間、聞こえてきた声の方へと救いを求めるように顔を向ける。
そこには、いつの間にか帰ってきていたフィリアさんがやれやれと言った表情を浮かべて立っていた。
続く
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