見出し画像

14歳の教育疎開

自分のバックボーンを話すのは気が引ける。
生まれ育った場所は好きではないし、今まで尊敬できる学校や塾の先生に出会ったこともない。特に学校という教育の場に希望や期待を抱くことを諦めてから、自立して生きることや社会課題解決のために働き活動することの意義は、社会人になって出会った大人たちに教えてもらった。

子どものうちから、それはできるだけ若い年齢のうちから、心惹かれ尊敬できる人に出会えることは本当に大切なことなんだと思う。

私はそれが25,26歳くらいだったから、あと10年早ければ、もっと世界を見る目は違っていたし、物事を見る視野の広さも違っていた。
世間に対するひねくれた感情や不信感もこんなに持たなかったのではと思う。
今でも基本的に、自分より年上で人生の先輩ヅラする大人が全員嫌いだ。その人たちの言葉を真正面から信じる素直さを持てない自分も嫌いだ。

教育事業を立ち上げるあなたは、どんな環境で育ってどんな教育を受けてきたの?それは、あまり言いたくない。胸を張って言えることはないし、恥ずかしいから。でも、新しい学び場をつくりたい気持ちは本物で、その決意も固いということをわかってもらいたいから、包み隠さず話したいと思う。


こんな場所で学びたくないと強く思った思春期

私は関西のとある都市で生まれ育った。出身地を他者に言うと、「えーいいなー!うらやましい!」「住んでみたい!」と言われる。でも、学校生活を過ごした地域は市内でも特に荒れていて、スクールウォーズじゃないけど、不良・朝礼にバイク・鉄パイプ・廊下で殴り合い・血が噴き出してる人・シンナー・タバコ・先生にいきなりキレて暴言吐いて先生と取っ組み合い・・・みたいな世界が広がっていた。

本当は中学受験して私立に行きたかった。そのつもりで塾にも通っていたし、受けた私立中学は合格した。でも経済的なことを理由に進学はNGになった。結果、近所でも評判の荒れてる学校に行くことになった。

その中学の何が嫌だったのかというと、スクールウォーズ化していることではない。
「シラケた空気」が死ぬほど嫌だった。
表に出ている非行行動や不良な態度はいいんじゃないかと思う。外に発散されているから問題が見つけやすいし対処もしやすい。何より、生徒の立場でも防御がとれる。「あの先輩はヤバい」「あの先輩と繋がってるアイツもヤバい」「近づかない」

でも、嫌だったのは、陰でなされていたいじめ行為。それを見てみぬふりする教師。なにより許せなかったのはシラケた教師の態度だった。
たぶん、私が通っていた小中学校に、生徒を本気で守ろうとか、生徒の将来を考えてどう行動すべきかとか、考えてる先生はほぼいなかったんじゃないかな(いたらゴメンやで)。それくらい教師に対する個人的な信頼はなかったし、信用できなかった。唯一信じられるかもと思った先生は、体調を崩して休職した。

「シラケた」っていうのは説明しづらい。
生徒を意図的に無視したり、生徒によって態度を変えたり、成績のいい生徒に「○○さん頼りにしてるから」と教室をまとめることの責任を押しつけたり、高圧的な態度で威圧したり、底意地の悪い嫌みを授業中特定の生徒に対して言って恥をかかせたり。そういうことの積み重ねだ。

根性腐ってるな。教育の担い手が何でこんなに知性も品格もないのか。どうしてそんなに意地悪なのか。

あの先生たちから、生徒に対する愛情を感じたことはなかった。
だから、そういうシラケた空気は生徒にも伝播して、レベルの低いイジメもたくさんあった。いつ何時、誰が標的になるのかわからない、見えづらい悪意の連鎖が続いていた。そういうことを面白がってする、暇な人が多い学び場だった。

ここにいたくない。
転校したい。日を追うごとにそんな気持ちが高まっていった。


親元を離れて始まった東北での新生活

親に話したら、叔母がいる東北地方の従姉妹が通う学校を紹介された。

当然私が単身関西から遠く離れた東北の学校に行くことは猛反対されたが、
私は断固譲らなかった。もう今の学校で勉強をしたり将来を考えることが嫌だったから。

そもそも、小学校の時点で中学は地元の学校に行きたくないって言ってたでしょ!と言い続けると、
親は私を私立へ進学させなかった引け目があったのか、最後は折れた。
私が親と攻防しているその裏で、弟は私立中学受験を既定路線として進学塾に通って着々と準備していたし(その後大学までストレートで行ける私立中学に合格)、そういう姉弟での扱いの差を詰められたりしたのも親としては嫌だったのかもしれない。


東北には祖父母と叔母一家がいた。
その地域は質のいい進学校(高校)はすべて公立の女子校か男子校で、そのうちの1つに従姉妹が通っていた。学校生活や勉強できる環境かなどいろいろ聞き、高校でその学校を目指すなら、中学のうちに転校して内申をとるなど準備が必要だということで、中2の夏に転校した。

親と現地の教育委員会に挨拶に行き、いろいろな手続きをしてもらい、中学2年生の2学期から新しい地域での生活をはじめた。

転校先の中学でも多少のイジメはあったし(私も標的にされかかったこともあった)、さみしくて辛い思いをしたことはあったけど、地域柄なのか基本的には皆穏やかでゆったりとした気質で、学校の先生たちも特に好きになった先生はいなかったけど、先生を理由に学校生活で嫌な思いをしたことも逆になかった。


1年半後、無事志望校の高校に合格した。


当たり前に教育疎開ができる世の中に

生まれた場所も親も選べない。どんな環境で学ぶか、そこでどんな大人に出会うかっていうことについて、子どもたちは基本的に選択肢はない。様々な学校を情報収集して、子どもに合う学校を子どもと一緒になって探すという意識と経済水準が高い親は少ない。

どうして良い教育を受けようと思うと、お金がかかるのか。
どうして良い大人に巡り会うのは運なのか。
どうして子どものことを第一に考えない大人が教育の担い手になるのか。


「教育疎開」をして良かったのかと振り返ると、正解だったのかはわからない。
結局大学は親から「親元から離れすぎ!大学は地元に戻れ!」とギャーギャー言われて折れて親元から通える学校にしたし、単身引っ越してまで目指した高校が飛び抜けて良い学び場だったかと言われるとそうでもないし(でも人間関係のトラブルはほとんどなかったから総じて良い学校だったと思う)。

唯一良かったことは、高校で親友に出会えたこと。
この子に出会うために疎開したのかなーとも思う。
学生時代に心の琴線に触れる大人には出会えなかったけれど、
一生の友達に出会えたから、それで良かったのかなと思う。


でも、子どものうちから、いろんな生き方をしている大人に出会いたかったなと思う気持ちは変わらない。今自分の近くにはいないけど、世の中には誰かのために命かけて行動したり、熱い思いをもって社会課題を解決するために仕事をしている人がいるんだっていうことを知り、その大人を通じて広い世界を見る機会が欲しかったなと思う。

親を無理やり説得しなくても、引っ越ししなくても、親元離れて寂しい思いをしなくても、ボタン一つで日本・世界中のキラキラ・アツアツな大人と繋がれる仕組みが14歳のときにあったら、もう少しここで頑張ろうと思ったかもしれない(やっぱ我慢できなかったかも)。


今教育事業に携わったからこそ、改めて教育自分史を鮮明に思い出す。
原体験から何をどう次世代のために繋げていくか。

コドモタイムの事業の本質がそこにあるのかなと思う。


今日はここまで。

つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?