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ヒレカツ革命

 学生時代を過ごした登戸から少し離れた宮前平を訪れた僕は駅からずっと続く坂道を見上げていた。こんな坂があるとは聞いてないぞ。
 
 東急の田園調布線の駅である宮前平は川崎市でも東京の世田谷区の方が最寄である住宅地中心の地域だ。平らなのに坂があるのは何の皮肉だろうか、息を上げながら急な坂を上っていく。
 
 梅雨時とは思えない太陽光と梅雨らしいじわっとしたまとわりつく湿気にいやな思いをしながら、一思いに坂を上り切る。マンションの並ぶ大通りが見えてきたところでやっと名前通りの平らな道になる。

 僕がこの坂を登ったのには理由がある。登り切って右に体を向けると少しばかり人の列が見える。まだ11時20分なのになかなかの盛況ぶりだ、その列に向かって歩を進めると味のある店が見えてきた。

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 白い看板に『とんかつ』の文字。僕が目指していたのはこのとんかつを食べるためだったのだ。宮前平の住宅街、坂の上で待ち受けていた店。『とんかつしお田』だ。

 11時オープンなのに小さい12のカウンター席しかない店内はその味を求めた人々で一杯だった。無論、僕もそうなのだが。
 
列に並び、10分ほどで店内の入れ替えが起こり、上手い具合にL字のカウンターの丁度直角の部分にあたる席に座ることが出来た。丁度全体を見渡せるいいポジショニングを得ることが出来た、地の利を得たぞ。左に掲げられたメニューをじっと見つめる。
 
ロースか、ヒレか、はたまた海老フライの選択肢もありうる。それともチーズカツのパンチを取るか。目線を周りのお客さんの頼んだ品に向ける。ロースが多いな。ロース、か。ヒレか。僕が選ぶのはーーーヒレだ。

迷いを振り切り、ヒレカツ御前をセレクト。

だが、ヒレカツの他にも何か欲しい。

メインメニューの他にちょこちょこと単品料理が書いてあるではないか。その中から『魚介たっぷり』と誇らしげに刻まれたクリームコロッケが目に入る。こいつも行っておけ!

すいません、ヒレとクリームコロッケで。

注文を通し、一息を入れると厨房で揚げられるロースカツが見える。分厚い…ロースでもよかったか、いや悩むな。選択したなら振り返らずに受け入れるのみだ。まず静かに水で喉を湿らせる。良かった、頭が冷えた。

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揚げられる肉を見つめているとカウンターにお盆が来る。来たぞ、ヒレカツだ。お盆をしっかりと受け取り、目の前に下ろす。今、視界にヒレカツが姿を見せた。その姿はお上品な一口イメージのヒレをひっくり返す、圧倒的な存在感。大きな俵型のがっちりした二つの塊がキャベツの山に寄りかかっている。おいおい、これがヒレカツとは聞いていないぞ。

先頭の前にすり鉢の中のごまをすり潰し、そこへソースを流し込みゴマ香るソースを作り出す。そしてサイドの豚汁と小鉢、白飯を確認し割り箸を開く、いざ決闘だ。

まずは大判にソースをかけて、大きな口で嚙み砕く。ざっくりとした衣の中の肉は旨味を凝縮している。その肉は旨味の塊だが、驚くほど柔らかい。これはヒレカツの概念を超えているぞ。絶妙に衣の中で肉をカットすることでヒレ本来の柔らかさを生かし、肉を際立たせるその巧妙な調理に舌も、口も感嘆を上げてしまう。

ソースの次は塩とレモンだ。これがまた罪深い。ロースカツとは違い、噛みしめた先の幸福の形はまるで違う。なんて贅沢な時間なんだ、この幸せで泣いてしまうかもしれない。

豚汁、これもいい。とんかつ屋の豚汁はどうしてこうも深いのだろうか。小鉢を挟み、飯を運ぶ。今、定食を食べている実感が湧いて出る。

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そこへ追加の魚介クリームコロッケが姿を見せる。一つのコロッケだがその断面からは魚介の香りと真白のクリームが見え隠れしている。これはそのまままずは行くべきだ。クリームが零れそうな程の衣を箸で掴み、頬張る。クリームの濃い味がまず最初に現れるがすぐにクリームが海の味わいに変わっていく。タコやイカの旨味がクリーム全体に染み込んで、口の中を満たしていく。

さらにホタテが良いアクセントになり、この海を忽然とつなぎとめている。このクリームコロッケは母なる味だ、これほどの世界をとんかつ屋で食べられることに言葉すらない、言葉はいらない。

最後に半分のヒレカツを名残惜しみながら喰らい倒し、手を合わせる。とんかつの世界はまだまだ奥が深い。会計を済ませ、店を出る。

その味に取りつかれた人々の列を見て、僕は納得するしかなかった。また会おう、坂の上の孤高よ。

今回のお店
とんかつ しお田
住所 神奈川県川崎市宮前区宮前平3-15-17
お問い合わせ番号 044-877-5145
定休日 火・水 時折木も休み
営業時間 11時~14時
     17時~20時

※現在は記入制になっているのでお気を付けください


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