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貧困ぬけ〜貧困層を抜けた人の話〜vol,5「映画ジョーカー」

なぬかいちか、なのかいちか、一家総コミュ障の貧乏人の家庭に生まれ育った私にとって自分の生まれ育った場所の町名すらわからないことは自然なことです。親に聞くこともできず、できない理由は絶縁しているからで、離婚した両親の破綻した生活の面倒など到底見れようもない、常識を逸脱した破壊的な言動をとるおそらく重度の躁鬱の母と、常識を逸脱した自己中のおそらく重度のアスペルガーの父です。接触すればこちらの家庭と生活が破綻することが目に見えています。

彼らが不幸なのは、自浄能力がないこと。自ら反省し、学ぶと言うことができない。学ぶことができないのは、消極的であること。消極的であることが「大人の振る舞い」として正しいと教育されてきたことが彼ら団塊の世代の生きた社会の根底にあること。例えば年取ると学べないとか‥。じっとしていれば、黙って指示された労働をしていれば美しさを感じる感受性を育てられ、そのような感覚になるように学校、職場、家庭で教育されています。結果的に彼らは、自らが躁鬱であったり、アスペルガーであることは気づきません。今の状態に何の疑いも持たない。教わった通りに生きているので。

彼らのその様子は貧困層の良心的な生き様をありありと映し出しています。彼らの最低賃金で黙って一生働く姿は正に社会のお手本ですが、私はそれを良質と称するべきかどうかは疑問です。先日観たジョーカー、ジョーカーは久々に気に入りました。リアルに私とリンクするので私の心と体に湿潤しました。なのであれ以来ホイホイ頭の中に出てきます。このジョーカーの最初の母子の様子を、その慎ましく、幸せそうな雰囲気を見ると良いと思います。でも、そこに学びは無く、客観的に自らの姿を捉えてもはっきりと認識できるほど掘り下げてみることもありません。暗い過去に阻まれ、母は真実を隠しているので、ジョーカーは自分や母の生い立ちにおじさんになるまで気づかないのです。

自ら考える学びは、受け身でいるだけではできません。我々世代までは学校で兎に角暗記する教育を受け続けてきました。テストの内容は殆ど記憶力。そんな中で私にピタッとはまったのは東京藝術大学の油画専攻です。当時は学科の勉強の得点を一切見ない。暗記以外の想像力や感覚や技芸で勝負することができました。記憶するインプットはただただ受け身でいることを強います。多くの人がそれに苦痛を感じて耐え忍んできたのではないでしょうか?

貧乏の貧困の状態に疑問を持たず、ことを荒立てず、静かに耐え忍んだ彼ら私の両親は、そう言った意味では優等生です。彼らの中ではそのような誇りがありました。ボタンの掛け違いさえしなければ清貧で通る。そのような徹底性はありました。でも、片や躁鬱に、片やアスペに、暗黙の内に陥り、家庭を破壊してしまうのは、そこに学びがないからです。客観的に自らの姿を見て、反省すると言うよりも、それぞれが自分は間違っていない、と一歩も譲りません。それを裏付ける論理的な根拠はなく、それぞれがそれぞれの生まれ育った環境で、違う生まれ育ちの中で身につけた常識を、世界の常識と信じ、常識の、価値観の相違する双方が、相手が間違いだと信じて疑わない。学び、には遊びが必要です。正しいのか、正しくないのかは判然としない。そのような中で好奇心を持って探りを入れる。気楽に探り続ける営みが、色んな現実と向かい合う柔軟な姿を、それが自分の心の中にあることを次第に認めてくれるのだと思います。困ったら、学ぶ。彼らにとって、自らを疑うことは、それが同時に不幸を意味します。彼らに辛抱のいる咀嚼はできない。そうすると成長はしないのです。但し、そのように教育してきた学校や社会はあります。未だにそうです。貧困層にある全員が自らを見直せるようにするべきです。それにはまず、「どれだけ安い給料でも黙って受け入れる美学」は捨てて良い。と私は考えています。

私が「安い給料で黙って労働することを受け入れる美学を捨てよ」というと、一昔前では反社会的な言動として否定されると思います。政治では保守層の皆さんから非難ゴーゴー。高所得の方から白い目で見られそうです。安い給料でどれだけ静かに働き続けてくれるか?これは富裕層が大切にしてきた命題です。

余談ですが、国は今、低所得者の本当に底辺にいる薄い層にのみ修学支援新制度と称して支援し、支援していると称して、国立大学の授業料設定の自由化をしようとしています。圧倒的にとる金額の方が多い。

ジョーカー自身は映画の冒頭で笑えませんでした。口角を指で無理やり押し上げる。そのような教育を貧困層の人間は強いられています。学校でつまらない授業を死んだ魚の眼でただただじっと受けさせる。ジョーカーは映画の後半で死んだ魚の眼から生気の漲った眼に変わります。小躍りしたくなる気分になれた。

ジョーカーは映画の中で職を失います。貧困層の人間は安い給料で黙って働くことを受け入れなければ職を失うと言う恐怖心に絶えず苛まされる。職を失う恐怖心は大きいものです。でも、職を失うことを恐れてはなりません。そして職を失った時。それを変えるのが「学び」です。日頃から時間さえあれば学ぶようにする必要があるのです。貧困層の人間は本当の「学び」を教わっていません。「才能神話」(私の造語です。)を信じているために勉強しても学力が上がらないと思い込んでいます。貧富の差ではなく才能の差だと信じこまされれば文句の言いようはありません。そしてそれと同時に努力しようとする心の芽を上手く摘み取ることができます。学力が上がらないと思い込んだ原因は、学びの前に十分な遊びがなかったからです。遊びから学びに。例えば思う存分遊んでそれを突き詰めれば良いのです。ピエロでもなんでもいいと思います。それを突き詰めながら「才能がない」とは気のせいなので絶対に思わないようにしてください。

日常に遊びがなくなれば、学びは無くなります。学びのなくなった大人は多い。今の仕事をしながら、時間がある時に、まずは遊べばいいのです。貧困層の人間はじっと耐え凌ぐことで精一杯で、遊ぶ気持ちの余裕がありません。それを阻害するのは遊ばないことに対する美学があることです。遊びは常識や宗教や思想の違いを超えます。家族でお金をかけずに外出したり、遊んだり、話をしたりすることは悪いことではありません。我が家ではそのようなことの全てが下らないこととされていました。美しいはずの耐え凌ぐことがやがて貧困の深みに嵌めていきます。その美しさを誰かが評価してくれ、その姿勢が得や徳に繋がる状況なら良いでしょう。そのようなものではなく、ただただ貧しくなるばかり。

貧困から抜けることできない家庭には学びがありません。時間があってもただただじっとして何もしない。今の彼らにはお金を渡しても消費するだけで終わってしまう。支援としてお金を渡せるのであれば渡してあげるといいと思いますが、状況を変えるには「才能神話」を壊し、「貧困ぬけ」するために「学ぶこと」を教えるべきです。

なぬかいちには私がディスレクシアになった原因と思われる秘密があります。

続く

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