アートの「天才」は誰か?正解は「誰でも」です。vol.5「アートに成績をつけるな」
アートの汚点
アートに正解はない。
作品に優劣や成績はつけられない。
アートは誰もが天才だ。
指導者は個々の作品についてその天才性を見出さなければならない。
人は誰でもアートの天才だ。
天才アーティストになれる。
それを見いだせなければ指導はしてはならない。
学校の図画工作や美術の成績のつけ方には特徴がある。
巧緻性の高い作品。つまり手先が器用な作品。
落ち着いて描かれた作品。ゆっくりと丁寧な仕事をしている作品。
沢山描きこまれた作品。頑張って手を入れている作品。
上げていけばきりがない。後、これらの評価は先生によって変わる。
そしてさらなる問題は、これらは全て成績をつける意味がないことだ。
まず、巧緻性の高さ。巧緻性が低ければ線や色がコントロールし切れず、その為手グセのない複雑で魅力的な線になる。巧緻性の高い低いは評価の対象にならない。巧緻性の低い作品の良さがわからない先生は多い。
次に、落ち着いて描かれた作品。EQが低い人は魅力的な作品を描けないということではない。画面に殴りつけるように描いたっていい。
沢山描きこまれた作品。鬱状態にある場合、心が不安定なため建設的に物事を考えることができない。そのような心の状態でできる限りの仕事をした作品に魅力がないわけではない。例えば死を目前にした人はどうか?私は死の目前に絵を描くかもしれない。その時に描いた絵を指導要領だろうがなんだろうが評価されたら私はその失礼極まりない行為にあの世で憤慨するだろう。
作品に評価などつけてはならない。
問題はそれぞれの作品が如何に素晴らしいかを見出すことだ。
それができない者が本来指導などしてはならない。
アートアレルギー
学校の図画工作と美術の評価はひどい。
画一的な評価によって、全員が素晴らしい力を持っているにも関わらず、それが見えない盲目な学校は、その誤った評価によって、誤った成績優秀者を数名選んだ後に、残されたほぼ全員がアートに対する興味関心を削ぐ誤った低い評価を、何のためらいもなく他の教科の真似をしてつける。私がもっとも懸念しているのは、この時に量産されるアートアレルギーだ。良かれと思ってビシバシつけている評価で殆ど皆アートに興味を無くす。アートは自分の首を絞めている。
他の教科であれば正解と不正解に分けられる。アートはそれはできない。
できるのであれば不正解にした作品を並べてそれをよく見て欲しい。如何にくだらないかよくわかるはずだ。
このくだらなさが本当にわからないなら本当にどうかした方がいい。
このくだらなさは薄々はわかっているはずだ。
わかっているのに成績をつけている。
私は落ち着いたら低い成績がついている作品を集めて展覧会をしたり、教科書を作りたいと考えている。成績表と作品を展示して「悪い」と称するものが何か分析して公開したいと思う。
「悪い」という評価が実はないことから、低い評価もないことは誰もが理解できることだろうと思う。
だとしたら1日も早くこのようなくだらないことはやめるべきだ。
アートの五段階評価
他の教科の真似は良くない。
アートの五段階評価、1と2と3と4と5の段階は偽りだ。
評価の意図は簡単に打ち崩せる。
後日改めて行う。
アーティストになりたかったり、芸大美大に行きたかったりしている人で五段階評価が1か2だったから諦めようとしている人は、気をつけて。
五段階評価は授業中に大人しくしていたかどうか程度の評価でしかない。作品や能力を判定する力は一切ない。
どうしても学校の先生が図画工作や美術の成績が悪いから諦めるように言うなら私の元に来て下さい。
1でも3でも努力するなら問題なく形にします。
「アートと同じように自分の中にある活きた日本語」
アートと言葉はよく似ています。
日本人は誰でも日本語の天才です。国語の成績が悪くても普通に難なく日本語を使って会話しています。
自分の中にある文法は多くの場合その人にしかわかりません。
それが如何に洗練されているかも自分でよくわかっているはずです。
その洗練された文法は特定の場におかれてはじめて能力を発揮するものです。
学校は個の天才的な文法を認識できるようになるべきです。
図画工作と美術の授業も同じです。
個々を絶対に同じように見てはなりません。
個々の中にある洗練された文法。
それを社会や学校はマイナス評価してはなりません。
自分の中や家庭の中、友達同士でつーかーで成立しているのですからマイナス評価してはなりません。表現とは伝える伝わる。
マイナスではなく、むしろ社会や学校がそれを認識してプラス評価できるようにするべきです。
それぞれがこれまでも、これからも使う本当の活きた日本語。
活きた日本語は実際に個々が後の人生で使うもの。
教科書にある活きない日本語は必要ありません。
例えばざっくり言えば古典と漢文なんか私が生きてきた人生50年の中でただの1度も使ったことがない。
つまり1度も活きない日本語です。
中学高校の6年間やりましたが、あれは私の人生において半年程度の短期講座で十分です。
学校はもっと活きる日本語を教えることに時間を費やすべきです。
アートにおいて「天才」は誰か?正解は「誰でも」です。
アートは語学と違って生得的なもの。
生得的な力はアートが学校教育という後天的な画一的な指導をやってしまうので、アートの手でことごとく潰します。
天才が全く育たない。とても不味い状況です。
続く。
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