死の迎え方=自分がいかに生きてきたか

本日は6時に起床。週の始まりにいつものペースに戻せたことは合格。
習慣化に関しては特段、意識せずともある程度できるようになっている。

その後はwell-beingに関して思考していたが、考えれば、考えるほどこの概念は素晴らしいと思う。しかしCJCが具体的にやりたいこととwell-beingの繋がる接点がいまだに不明瞭だ。

その後、始業後から昼過ぎまで集中して仕事に取り組むことが出来た。

その後、2019年下期の社内での評価を上司から伝えられた。
結果は、社内規定上、1番良い評価であった(4期連続)

そしてその告げられた際の感情は

喜びも高揚感も特になかった

しかし、私は入社してからこの社内評価というものに人より執着が異常に強かったと思う。過去3期はいわゆるA評価というものをもらった際は、とても嬉しく自分の仕事のモチベーションであった。

たった半年でなにがここまで自分を変えさせた考えは何かというと

こんな社内評価など、世間からしたら何の価値も持たないものと気づいたからだ

例えるなら、外国の通貨と同じであろう。
タイで使うバーツはタイの中では価値があるが、日本国内においては何の意味もない(換金は除く)
通貨ならまだ良いが、この社内評価というものは、通貨よりも役に立たないものでであろう。

今後の人生で新しく人と出会って自己紹介する際に

私は○○社で4期連続A評価をもらっている人間です。

とまさかいう訳はないであろう。
他人からしたら、そんな狭い世界の評価なんて聞かされても無意味だ。

大切なのは

私は〜〜という考え方を大切にしていて、それに沿った生き方ができるよう〜〜に今、夢中です

と言える人間の方がよっぽど価値があるであろう。

コモディティな仕事から早く脱したい。
自分にしかない力を早く他人のために使いたい。

今日の進歩

well-being(生き方)について考えていると、1つの式が見つかった。

生き方=死に方

である。最後どのように死を迎えるか(不慮の事故等は除く)を考えると、自ずとどのように生きていくかということを考えることになる。

では、人々の求めている死の迎え方がわかれば、生き方の答えも出るという訳だ。
この言葉は有名だが

この尊厳死という言葉はもう一般的になりつつある。
端的に言うと

人間としての尊厳を保ったまま死を迎えること

である。尊厳を持って死を迎えるには、尊厳を持った生き方をしなければならない。ではその尊厳を持った生き方はなにかと言うと

私の中での生きるということは=○○である

と断定できるものを見つけることだ。
これが見つかれば、あとは生きる目的に沿って生きていけば良いのだ。
それが

尊厳のある生き方=well-being

である。

死から考えていけば、生の答えが出る。

CJCの尊厳のある生き方ができる社会にしたい。そのためには死と向き合う必要がある。ではその死と生の繋がりがある場所は何かと言ったら寺院である。

今日はここまで。

少しずつ、答えに近づいている。

死に方を考える=生き方を考えるということ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?