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06: 「休む」ことは逃げること!?

加藤隆弘(かとう・ たかひろ)
九州大学大学院医学研究院精神病態医学 准教授
(分子細胞研究室・グループ長)
九州大学病院 気分障害ひきこもり外来・主宰
医学博士・精神分析家

『みんなのひきこもり』(木立の文庫, 2020年)
『メンタルヘルスファーストエイド』(編著: 創元社, 2021年)
『北山理論の発見』(共著: 創元社, 2015年)

 

 長女の高校入学式出席のため、わずか半日ですが久々に有休をとりました。
 大きな講堂での入学式でしたが、コロナ禍のため家族一人だけの同席が許可されており、今回幾つかの事情が重なり、父親である私が出席することになりました。長女が私の出席を拒絶しなかったことにはホッとしました。
 私は「五人に一人くらいは父親が参加するだろう」と期待していたのですが、蓋を開けてみると、長女のクラスのなかで父親の参加者は、私を含めてわずか二人だけでした。こうしたイベントの時、母親ではなく父親の方が平日昼間に休むということは、まだ私たちの社会では珍しいことなのかもしれませんね。
 「休む」という行為からは、「所属している組織(会社・学校)から逃げる」というニュアンスが生じて、周囲からネガティブに思われやすいところが残っているからかもしれません。もちろん、父親が育休を申請できるようになるなど、社会は変わりつつありますが…。
 

 娘の入学式が終わり、珍しく何もすることのない平日の昼下がり。近くのカフェに立ち寄りました。「今週も連載執筆するぞ!」とMacBookをひろげて、前回の原稿を眺めていたら、18歳から成人になったという箇所で「法律改正」という私が使用した言葉が気になってきました。
 「『改正』ではなく正しくは『改訂』と表記すべきだったのでは?」と心配になったのです。早速ネットで法務省のホームページを閲覧したところ「法律改正」と記載されていて、ホッとしました。ですが、それでも「本当に改正でよいのか?」と、どうでもよい雑念がどんどん膨らんできました。
 

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 私は昔から、日本語(特に漢字)への変なこだわりがあるのです。精神科医になったばかりの頃、〈日本語臨床研究会〉という伝説の研究会がありました。北山修先生が主宰されていた研究会で、私は2005年に初参加しました。精神科医としての私が人前で私自身の心の内を公に語った初舞台となりました。
 「ここなら自分の変なこだわりを公開出来るに違いない!」という思い込みから、「私たち医師は教師ではないのに、なぜ患者から“先生”と呼ばれるのか?」とか、「なぜ“親切”は『おやぎり』と書くのか?」といったナイーブな疑問をぶつけたのです。
 若い頃の精神科医の私にとって日本語臨床研究会という舞台は、「ひとりでいられる能力(capacity to be alone)」という概念を提唱したウィニコットの言葉を借りれば、まさに「可能性空間(potential space)」でした。この研究会があったからこそ、窮屈で逃げ出したいという社会人生活に身を置きつつも、割と自由な精神活動ができたのではないかと振り返るのです。
 


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 さてさて、私の日本語へのこだわりは当時と変わっていないようです。「法律改正」という表記には、「これまでの『20歳から成人』というのは間違っていて、『18歳から成人』の方が正しいのだ!』というニュアンスが含まれているようで、私は違和感を覚えてしまうのです。「改訂」という言葉ならまだ納得がいきます――「多数決の原理に則り『18歳から成人にすることが望ましい』という意見が多いから、法律を修正しました」ということなら。
 多数決の原理は、正しい/正しくないの絶対基準ではありません。少なくとも私はそう信じています。歴史に鑑みて、「多数決で漏れてしまったマイナーな意見こそが正しかった」ということは、いくらでもあるのです。
 
 いま、NLBという言葉が流行っているようです――“No One Left behind”、誰も取り残さない社会。

つづく

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