もしツル Scene 1

  


 慎之介は意味不明の言葉を繰り返して廊下で後ずさりした。
 わたしは見られてしまった……。

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 「そんなに驚かないでよ……」
こころのなかでそう呟きながら、バスルームを出た。わたしの白い羽は濡れたままで、その先から雫が垂れっているのを見た慎之介は、足早にリビングルームへ入っていった。その後ろ姿を見ると悲しくなった。 

 彼の後を追ってリビングにいくと、ソファに腰を下ろし強張った表情でこちらを見ていた。その目を見ると、正体を見られたわたしは恥ずかしく居たたまれない気持ちになった。
 わたしはもうソファには座れない。だから立ったままでその姿を見ていた。しばらくして、彼はキッチンの冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、ソファに戻って一本目を一気に飲み干した。二本目のプルトップを開けて二口飲んだところで、少し落ち着きを取り戻したのか、目の前にいるわたしを観察するように眺めてから、
 『おまえ、やよいなの? それとも鶴なの?』
と、探るような口調で話しかけてきた。これは、ちょっと間抜けな質問だったので、思わず笑い声、いや鳴き声を上げてしまった。

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 「わたし、鶴です。そして、やよいです」
と言いたかったけれど、残念ながら二度と人間の言葉は話せない。それが掟なのだ。〈正体を見られた鶴は再び人間の姿に戻れないし、人間と話すこともできない〉のだ。わたしが黙ったままでいると、彼は深く息を吐き出した。そしてビールの残りを飲んだ。
 それから沈黙が続いた。彼は頭を左に向けてベランダの先にみえる東京タワーのネオンサインをぼんやり見ているようだった。

 わたしは小さい頭を上げ、長いくちばしがペンダントの明かりに照らされて黒く光っているのを見ながら、〈人間に正体を知られたら鶴の世界に戻ることが許されない〉という、もう一つの掟のことを考えていた。それは、まったく理不尽な掟だった。今から百年ほど前まではこんな掟はなかったらしい。では、どうしてそうなってしまったのか。


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