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おもったとおりにやるために(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』を読む)

人生の目的は、自由の獲得

森博嗣はコンクリートの研究者で『すべてがFになる 』でデビューしたミステリ作家でもあリます。速筆多作であっという間に人気作家になり、今は隠居して鉄道模型を作っています。

その文章からいつも感じるのは思考の自由

ここまでやりたいように、思ったとおりにやれるのか。『自由をつくる自在に生きる 』は彼自身がその自由を語っている本で、とても面白かったのでご紹介します。

森博嗣は「人生の目的は、自由の獲得」だと言います。そのシンプルで(ややつっけんどんな)思考と着実な行動から、自由について考えてみたいと思います。

自由とは自在のこと

森博嗣の言う自由とは「自在」のことであり、剣豪が刀を操るように、自分の「思ったとおり」にできることだそうです。森博嗣の剣豪と言えば小説「ブラッド・スクーパ – The Blood Scooper」で何十人もをメッタ斬りにしている主人公ゼンが浮かびます。それは静謐な剣でした。

自由になるため(思ったとおりになるため)には、思いのとおりに「思考」し「行動」して思ったとおりにできた「結果」を見て「満足」する。その一連のプロセスが森博嗣の「自由」だと私は読みとりました。

不自由という支配からの卒業

前述した自由のプロセスに、何らかの支配を受けて抑制がかかることを「不自由」だと森博嗣は言います。自由であるためには不自由という支配から抜け出さなければならない。このあたりはやや尾崎豊を彷彿させますね。

尾崎豊は名曲「卒業」でこう歌っていました。

あと何度、自分自身、卒業すれば、本当の自分に辿り着けるだろう

この支配からの卒業。尾崎にとっての自由とは、本当の自分を求め、僕が僕であるために、今の自分という不自由を卒業し続ける、心理学で言う個性化のプロセスです。

森博嗣もこう言っています。家族や親戚、友人や同僚などの他者、学校や会社、国などの社会、といった外部からの支配はわかりやすいが、一番やっかいなのは自分による支配。「乗り越えられないと信じていた困難」「あると思い込んでいた限界」が、つまり自分自身が自由を束縛している

だから森博嗣の座右の銘は「何ものにもこだわらないことに、こだわる」なのだそうです。表現が天邪鬼なところがいかにもですが、やはり自分の「こだわり」という支配から卒業することこそが自由だと置いているのではないでしょうか。

自由意志はどこにあるのか?

まずはじめに「思い」がなければ「思ったとおり」にはならない(つまり自由にはならない)。思いこそが起点です。しかし、やりたいこと、いわゆる自由意志についてはこの著書にはほとんど触れられていませんでした。

それは「こだわらない」ことを信条とするからかも知れません。彼の他のエッセイを読んで探ると、子供の頃にやりたいと思っていたができなかった大規模な鉄道模型をつくることが彼の「やりたいこと」のように見えます。

前出の剣豪小説では、相手を斬ろうという意志が見えた瞬間に切られる描写があります。意志の介在しない流れるように自然な動きにこそ自在が宿っているのでしょうか?

一方で尾崎豊の自由意志は観念的であり悲愴です。他者の中にのみある幻想であることを知っているかのように「本当の自分の姿を失いそうな時、君の中の僕だけがぼやけて見える」と歌っています(『永遠の胸』より)。

私たちは何を望みたいか?

ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」にもこんなシーンがあります。

アリス 「お願い、教えて。私、どっちに行けばいいの?
チェシャ猫 「それは、きみがどこに行きたいかによるさ

どうして良いかわからない状況で「とにかく前に進みましょう」といった発言を聞くと、前がどちらかによるな、と私はいつも思います。何を望むかさえわかれば、あとは考えて動くだけのシンプルな作業なのです。

『サピエンス全史』ではユヴァルもこう言っていました。
真の疑問は「私たちは何を望みたいのか?」だと。


次回は、青山拓央『時間と自由意志』という哲学書を元に、自由についてさらに考えてみようと思います(書きました!)。



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