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だまさない人になるために:noteでの心がけ

はじめに

こういうことはあまり自分のnoteに書きたくなかったのですが、やっぱり言っておいた方が良いと判断したので、思い切って書くことにしました。

私は嘘を発信しないように細心の注意を払って記事を書きます。

……何を当たり前のことを?と思われるかもしれませんが、大事なことなので記事にしてみました。


きっかけ


つい先日、私の中のアウトラインを超えたものに出会ってしまい、ちょっと血圧が上昇した出来事がありました。
それは私の得意分野のことが書かれた記事を発見し、どれどれと思って読んでみたこと。率直な感想は、
「おいおいおい、ちょっと待ってくれ。嘘をつかないでくれ!」
でした。正確には嘘と真が入り混じっていました。余計タチが悪いかも。そして、
「それと、この書き方はひどい。これは本来ならアウトなんだけどな?」
とかなり引っかかりました。

普段はこの手の記事は気にも留めないことが多いのですが、一時期自分が真剣に取り組んでいた分野のことが、私の目線からするとあまりに不誠実に書き散らされていたので、悲しくなってしまいました。

もっと悲しくなったのは、それに少なからぬ人が♡していたことです。

善良な市民に嘘を教え込んでくれるなよ……、間違って覚えていても命にかかわるものではないけどさぁ、やっぱり嘘はよくないよ……と、いろんな感情が渦巻いていたので、いったん考えをまとめようと文章を書き出しました。その勢いで出来上がったのが、本記事の第一稿でした。(その後クールダウンして修正を入れたのがこの公開記事)

さて、私が気になった点は、主に3点ありました。
①内容が不正確
②出典や参考文献の不記載
③断定的な記述

正直どれもひどいのですが、一番恐ろしいのは、もっともらしく書いてあるがために、その分野に詳しくない方が読んだら信じてしまいかねないことです。だからそこそこの♡がついていたのでしょうね。ギルティ。

上述の3点について、次の項でより詳しくご説明します。

「事実として主張することは容易ではない」――私の学びから


説明に入る前提として、私の経験から学んだことを書きます。
私は修士課程までではありますが、大学院で研究をかじっていました。たった2年という期間ではあっても、論文の執筆という経験を通して、「何かを事実として主張することは、容易なことではない」ということを強く実感しました。
以下に具体的にご説明します。

私の行った研究は、「〇〇という人物は△△と考えた。」とか「××という人は□□という思想を有していた。」といった、思想家たちの思想内容を解釈していく作業を伴いました。ただ、この作業の難しい点は、思想家の主張を、現代とは時代背景も言葉も違う文書を読み解きながら、できるだけ正確に読み取らなければならないことです。

自分以外の誰かの考えを正確に読み解くことの難しさ。想像していただければ分かると思いますが、その対象が同時代人だって、なんなら自分の家族であったって、自信を持って「この人の考え、私はまるっと理解していますよ!この人は~~で……だと考えています!」などと言える人は、そうそういないのではないでしょうか?

だから研究においては、その思想家についての先行研究の検討と、本人が書いたままの文章(=原典)をできるだけたくさん読んでいきました。また、歴史的背景を理解するために、その人が生きた時代(あるいはその前史も)のことなども知っておかねばなりませんでした。
それらがあってようやく、「●●という人物は▲▲という思想であったと考えるのは、妥当だといえる。」のラインに到達できるのです。

では、以上を踏まえて前に挙げた3点について検討を加えていきます。

▶①内容が不正確
明らかに不正確なことを、さも正しいかのように語るのは、全くいただけないことだと思います。発信者は自分の発信した内容に責任を持つべきだと私は考えるので、情報発信には慎重なくらいがちょうど良いと思っています。

ただ、「正しい(こと)とは何か?」と問われると、これもなかなか難しいんですよね。
たとえば、学問の世界であっても、その内容は日々アップデートされていきますよね。教科書に載っていたことが、後年の研究によると実は違っていたなんてことは、歴史の常であることです。天動説が真面目に信じられていた時代だってあったわけですから。

そのため、なにをもって正確というのか?という議論を始めると、非常に大きな問題になってしまって収束がつかなくなりそうなので、今回は踏み込みません。
が、客観的にも確からしいと認めてもらえる内容、つまり、ちゃんとした根拠があり、話の筋が通っていて、皆んなが納得できる内容が、ひとまずは正確な内容といえるのではないでしょうか?

だからこそ②とか③が大事になってくるんです。

※ご自身に特有の経験から得た知見や感想を披露するのは、その人にとっての事実であるため、かまわないと思います。それを万人に当てはまる法則だよ!とか言い出したらちょっと胡散臭うさんくさいですけど。
だから私自身も感想や体験記などを書くことが多いです。

▶②出典や参考文献の不記載
アカデミックな世界なら、これらが抜け落ちているのは言語道断ではあるのですが…。あくまでnoteなので(より正確に書いた方がいいのは自明のこととして)、論文ほど正確に脚注を入れなくても良いと個人的には思っています。

ただし、自分が0から生み出したわけでもない内容のことを、何の参考文献も示さずに書くのはルール違反ではないでしょうか(アカデミックの分野では厳禁)。まず我が物顔で書いていたら、その内容を考案した人物に失礼ですし、記事の内容について正確性を示すためには、根拠の提示が求められます。少なくとも、思想紹介を主題とするのであれば、できれば根拠となる思想家本人の主張を示すことが望ましいと思います。

また、その思想や思想家に興味を持った方、逆に内容に疑義を持った方がいる場合を想定すると、参考文献が示されている方が親切です。そうすれば、その方が直接その文献を確かめることができますから。

▶③断定的な記述
断定的に記述するというのは、確信度合がかなり高くないとできないことです。前述したとおり、何かを事実として主張することは、かなり慎重を期さないとできません。
だからこそ、②の出典・参考文献、つまり根拠が示されていない文章で、しかも誤った内容を断定的に記述しているのは、読むに耐えなかったです。

ただ人間は、自信がある人にだまされがちなんですよね。だからこそ悲しくも腹立たしくも感じたのです。

だまさない人になるために


以上が「それをしてはイカンだろう!」と私が思ったポイントでした。

文章の正確さを見抜けないリテラシーの低さは、読者側の問題だと言うことも可能かもしれませんが、あらゆる分野をカバーする知識を有する人などいないのも、また事実です。私もつらつら書いてきましたが、ほんの狭い自分の得意分野以外、それらしく書かれた文章には騙されかねないなと思います。

だから本当は、だまさないようになるポイントを書けたら良いなと思っていたのですが、それは私も十分な自信は持てずにおりまして……。結局のところ、善良な市民を「だます側が悪い」という考えに立って、記事を書くことにしたのでした。

というわけで、「せめて自分は人をだますようなことはしないぞ」と思いを強めたので、次のように再度宣言しておこうと思います。

私はnoteの記事執筆において、今後も嘘を発信しないように細心の注意を払います。

今までも意識してきたことではあるのですが、参考文献や出典は明らかに、客観的事実や伝聞内容と自分の意見・考えは分けて書くように注意していきます。(実はこれまでの記事でも、断定できないことには「~のようです」とか、「~だと私は考えています」とか「個人的には~」といった書き方をしていました。)

これは、ありがたくも研究というものに、わずかばかりでも携わらせてもらったことに対する、自分なりの誠意でもあります。

おわりに


noteには、モノホンの研究者さまも多数いらっしゃるというのに、修士課程でほんのちょっぴり研究をかじっただけの人間(しかも素性も晒していない人間)が、こんな講釈を垂れるかのような内容を書いてよいものか、随分悩みました。しかし、私は自分の記事を読んでくださる方には誠実でありたいという思いと、お読みになった方にも多少は益のある内容になるかもしれないとの思いから、今回の投稿に至ったのでした。

…その実、自分の首を絞めるようなことも言っている気がして、書いていて恐ろしかったです。が、たとえ場末のスナックみたいな来訪者数の私のnoteであっても、公に発信していることは事実なので、その意識が薄れてしまわないように、あえてこの記事を公開することにしました。めっちゃ自戒を込めてます。

かなりお堅い文章だったかもしれませんが、最後までお読みくださってありがとうございました。

◇おまけ◇読書案内

本記事での私の主張は、戸田山先生の本を読んでいたことによって言語化できたと言っても過言ではありません。というわけで、参考図書をご紹介しておきます。

▶戸田山和久『科学哲学の冒険』NHK出版、2005年

本書は、様々な科学者や哲学者等々の主張を分かりやすく平易に説きながら、科学哲学(=本書の言葉を借りれば、「科学をまるごと理解すること」p.32)について筆者の考えが導かれていきます。

なかでも印象的だったことは、「あたりまえのことをあたりまえのことであると主張すること」は、やってみようとすると意外にも難しいのだということです。たとえば、帰納法に基づいて主張されたものは、100回の試行で正であったとしても、101回目の試行については正であるかは分からないという問題が、いつまでもついて回ってしまうのですから…。
でも、私たちは帰納が役立つ世界に生きているから帰納法を用いるのは妥当なのではないだろうか、という一節は面白かったです。(p.258-268)

ちなみに高校生~大学生向けの本とされているのですが、社会人になってから読んでも、かなり読みごたえがあると感じました。大学生のうちに読んでいたら、もっといいレポートや論文が書けたかもしれません。

▶戸田山和久『思考の教室―じょうずに考えるレッスン―』NHK出版、2020年

論理的思考とは何か・それを身につけるにはどうしたらよいかから始まり、その具体的な方法について書かれています。

たとえば、本記事との関連でいくと「自分がもっているさまざまなバイアスから自由になって文章を読むために役立つ」(p.259)として紹介されている「クリティカル・リーディング」。この文章の主張はなにか?その根拠はなにか?その妥当性は?といった具合に、文章を整理・分析して読んでいく方法を、例文と例題とともに学べます。
クリティカル・リーディングができたら、だまされにくくなると思いました。といっても、この本を読んだ瞬間にできるようになるのではなく、あくまでこの本を通して基礎的な考え方を身につけて、あとは実践を通して自分で磨いていくイメージです。

前掲の本よりずっと平易で、口語体なので読みやすいです。こちらも高校生~大学生向けですが、大人が読んでも反省させられそうな内容がいっぱいです。この本にあるような議論のしかたをみんなができたら、絶対に仕事も効率あがると思うんだけどな~なんて、会社員目線では思うことも。

端々はしばしに筆者の政治思想みたいなものが垣間見えはするのですが、全体的に良書だと思います。



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