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思いついた言葉は取れなかった流しそうめんのように

今朝、歯磨き中に
「あ、これTwitterに書こう」
と、思いついた文言があった。

しかし、今年5歳になる子どもがなんじゃのかんじゃのと言い、世話をしているうちに忘れてしまったのである。

思いついた時に見ていたものははっきりと覚えている。
洗濯機だ。
しかし、洗濯機と全く関係のない内容なのも覚えているし、
「誰がうまいこと言えとw」
というツッコミを受けるシミュレーションまでバッチリだった。

なのに、スコーンと抜けてしまった。
よくあることなのだが、よくありすぎて自分の脳みその設計ミスなのではないかと疑っている。

何せ子どもの頃からずっとこの調子である。

小説家になりたいと志した少女だった頃。
ぼーっとしているタイミングで、壮大なドラマがよく頭の中を駆け巡り、天才的(自画自賛)な言い回しが同時に浮かんでくるのだ。
「うわ、私天才じゃん?これあとで原稿用紙に書こうっと」

数分後、原稿用紙の前。
「なぜ忘れる……」

これを幾度となく繰り返し、そろそろ学んだ私は、大人になりTwitterという気楽に言葉を発信できるツールを手に入れた。
しかし、そのTwitterに書くことすら忘れるという体たらく。

最近は思いついたら、なにがなんでもメモを書くようにしていた。
Twitterの下書きやスマホのメモ機能など、時にはそのままツイートすることもある。
子どもがカマってモードの時に思いつくと、そうとはいかない。
夫がいるときは
「すまねぇ!!!今、降りてきてる!!!言葉が!!!!!」
と、丸投げできる。
だが、夫がいないときは思いついた言葉が流れていくことに甘んじるしかないのである。
さながら「流しそうめんが取れなかった時」の気持ちと似ている。

ゆえにこの現象のことを、
「言葉の流しそうめん現象」
と、勝手に呼ぶことにする。

次から次へと浮かんでは流れ消えていくそうめん(言葉)
つかもうとしてもツルツル滑っていくそうめん(言葉)

取れなかったそうめんの流れ着く先は、たらいだろう。
だからきっと何かのタイミングで、掴み損ねたそうめん(言葉)ともう一度出会うことができるはずと信じている。

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