ゲームは人生の「無駄」なのか?

こんな記事が今ネットで話題になってますね。

私もゲーム開発を仕事にしている手前、日頃からこういうことを考えてしまいます。正直言うと簡単に割り切れる話じゃないなーとも思います。今回は特に色々つらつらとりとめもなく書いてしまいそうな嫌な予感ですが、せっかくの機会なので……一筆添えさせてください。

ゲームは自分を「豊か」にしてくれた

まず自分の体験を振り返ると、率直にゲームは人生の無駄ではなかったと感じます。

自分が知らない世界の知識をたくさん教えてくれた。キャラクターのやりとりを通して心に感動を与えてくれた。障害を乗り越える達成感と自信を与えてくれた。他者との共通体験を与え、つながりを作ってくれた。ゲームとはインタラクティブであるだけで、今やあらゆる仮想体験が混在している場です。すぐに何かに役に立つわけではないことも多い。ただしその恩恵と多様性については声を大にして言いたいです。素晴らしいエンターテインメントですよと。

しかし一方、もちろんゲームにはそれ相応の負の側面があります。

ゲームは「長期的な時間の消費」を求めてくる

大半のゲームは(一部の例外を除いて) 続けて遊ぶことを前提に作られています。もっと厳密に言うと、最近のゲームほどその傾向は根強い。

飽きさせない適度な緊張と緩和。プレイ時間に比例約束される満足感。インタラクティブな没入感。継続性や中毒性の提供においてゲームというエンタメは特に群を抜いています。

そもそも昔のゲームは、提供側の限界もあって長く遊ばせること自体が困難でした。ゲームセンターで遊び続けていたとしてもいつかは閉店する。家庭用ゲームもデータは有限なので、いつかはエンディングが訪れる。「永遠」を与えるには程遠かった。

ですが技術も環境も変わり、十数年でその状況は変わってきました。

特に今のスマホゲーム、特にF2P(無料ゲーム)は、遊び続けるために作られたもはや「サービス」です。コンテンツは追加され続けるもの。スマホという物理的に小さくなっていつでも持ち運べるようになったゲーム機は、さらに隙間時間を埋めるために短いセッションで遊びやすさは洗練されました。さらには「課金ガチャ」でお金もつぎ込むほど、心理的に簡単にやめられない状況に陥ります。

子供ならなおさら簡単に深みにハマります。最近では中国でも低年齢層のゲームプレイを制限する仕組みを導入したことが記憶に新しい。

こうなってくると例の母親の気持ちもわからなくもありません。まあ直接作りてにクレームするのはどうかと思いますが……詳細はわかりませんが、それくらいの危い状況になっていても決して驚きません。

じゃあどうすればいい? ゲームを取り上げればいいのか? ところがそう簡単でもありません。

抑圧はさらなる衝動を生む

自分の幼少期を振り返るとよくわかりますが、うちは典型的な「ゲームなんてやってる暇があったら、勉強しなさい!」の、完全なるのび太ママでした。ゲームを欲しいとせがんでもせいぜい誕生日にもらえるかどうか。一日のプレイも夜以降は禁止……そんな家でした。
結果としてゲームを一切やらなくなりました!……ともちろんなるわけがなく、むしろ衝動は強くなるばかり。

結果として、親がみていないところで遊ぶよう工夫するスキルばかり磨いていくようになります。早起きして親がみていないうちに遊ぶ、親が寝た後にこっそりテレビごと部屋に運び込んでまでプレイする。欲しいゲームソフトをこっそり予約したり、景品で当たったと嘘をついて買ってきたりする始末。結局遠ざければ遠ざけようとするほど、子供にとってはかえってそれが欲求を引き立ててしまうんですね。

中学生ぐらいになると、私の場合は幸か不幸か、だんだん親にゲームのせいで成績が落ちると言われることが癪になってきました。親への反骨精神とあいまって、結果として一番この時期が受験勉強を頑張った気がします。

高校生になるとさらにこじれ「将来、ゲームを仕事にすればいくら遊んでも文句は言われないだろう!」と思うようになっていました。……安易ですよね。でも本気だったんですよ。

結果として大学で工学系に進んだ私は、本気でゲームを職業にしたい、ともう決めつけていました。就職先も後先考えず、ゲーム会社しか面接を受けませんでした。そうきくと覚悟があってかっこいいと聞こえますかね?でもむしろ逆です。

それしかないと思うように自分を仕向けていたんです。

このときは既に家を出ていてある意味でゲームをやる自由は勝ち取っていたわけです。もちろんゲームも好きだし、自分が作ったもので人を感動させたいという気持ちもあった。しかしそれだけではないと、今なら思えるのです。潜在意識の中に「ここまで自分はゲームに時間をつぎこんできた。もしここでこの道に進まなかったら……あの時間は何だったのだろう?」と少なからず感じるのでは、そんな気がしてならないのです。

もちろん遊んで楽しかった思い出を否定する気持ちは全くありません。本来娯楽とは消費するだけで十分価値があるもの。が、私の場合あまりに時間をそこにつぎこんだが故に、かえって不安を抱くレベルまで行ってしまっていたのかもしれない。そういうリスクもあるということです。その場合、自分の選んだ道が最良の選択だったと思えるようにしたい、という気持ちが芽生えることは自然なことだとも思うのです。

結局、人は人生の選択を肯定したい

ぐるっと話が回ってしまいましたが、もし自分が親として、子供がゲームに没頭したとき、私ならこう考えるでしょう――遊んだ内容がどんな影響を及ぼすか――というよりも、正しくそれで時間を使えているのだろうか? 別の選択を見逃した可能性はないか? 将来にちゃんと活きるのだろうか? 何より子供自身が――それを最良の選択だったと後から振り返って思えるようになってくれるだろうか――そう親心として、思うわけです。

それは親の身勝手な気持ちかもしれませんが、自分の半生を振り返ったときに、みえていた世界の狭さを思うとおのずとそうなる。また自分に負い目がある人ほど強く感じるのかもしれない。それがリアルだと私は少なくとも思います。

まとめ

案の定色んなところに取っ散らかっちゃいましたが……まず伝えたいのはゲームを遊ぶということ、それ自体はとても基本ポジティブな体験です。ただし長い目でみたときに付き合い方を考える余地はあると思います。

快楽を伴う以上、ある意味お酒と似たようなもの。飲み過ぎて自分を壊さないように、その時間が無駄だったと後から思わないように、だからこそうまく付き合ってもらうということ。生業としている立場、また今後自分が将来子供を育てていくときのことも考えて、与える立場としてバランスを常に問い続けていくべきだな、とあらためて肝に命じました。

何か全体的にしめっぽくなっているか心配です……夜更けに書きなぐった文章なのでご容赦ください。長々とお付き合いありがとうございました!

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