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祖母と私と戦争と平和

どうもこぶたです。
今日は、亡き祖母の家族が体験した戦争の話をしたいと思います。

私が子どもの頃は、戦争体験を学校で聞き、
テレビでもこの時期になると戦争体験を語る番組ばかりになり
中学の修学旅行は長崎で、3年間みっちりと平和教育を学びました。

戦争と平和の歌を合唱し、
もう戦争の話は十分だと思っていたのに
身近な祖父母の生きた“戦争”は知らずにいました。




まだ私が子どもを持つ前のこと。
亡き祖母の戸籍を見ていたら
家族3人が
同じ日、同じ場所で亡くなっていた。


1945年8月17日 満州


戦後の満州で何があったのよ?!
と驚いた。

終戦直後の満州は大変だったとは聞いていても
終戦後に家族3人が相次いで亡くなるような、何があったの?

と、無知だった。


鶯ボールと祖母の思い出

祖母は私がまだ小学校に上がる前に亡くなった。

親戚は祖母の葬儀で
「𓏸𓏸(祖母)の人生はなんもいいことがなかった」
と口々に言った。

記憶の中の祖母は病に伏していた。
時々「子どもらにおやつ」と鶯ボールをくれたけど、
私たち孫はそれが苦手で、あまり食べることは無かった。

ある時、病院に見舞いに行くと
枯れ枝のようになりポカリと口を開け、
ギョロギョロと目だけがこちらを見ていて
幼い私はそれを怖いと感じたが
そのうち亡くなったと聞き、
怖いと感じたことを申し訳なく思った。

話をしたことはほとんどない。
元気な姿もほとんど見たことがない。
どんな人なのかもよくわからない。

病院のにおい、湿気を含んだあの部屋、
大人たちの張り詰めた空気感、
言葉を発してはならない静かな時間の重さ、

そういったものだけが、私の中の祖母の記憶の引き出しに
丁寧にしまわれている。

だから、満州の話も戦争の話も
それどころか、抱き上げられた記憶も会った記憶さえも
ほとんどない。 

父母も祖父母とは元々折り合いが悪く、私が彼女の人生を知る術はなかった。


その日、彼らは死を選んだ

亡くなったのは祖母の70代の祖父と
6歳と3歳の妹。

彼らの身に起こったことは、その後に調べてわかった。


集団自決だった。


終戦を迎え、ロシア兵と現地人の暴徒に追い込まれ
団長は拘束され、男たちは徴兵されいない、
年寄りと子どもばかりの一団は
丸3日、飲まず食わずで歩き続け
最早ここまでと、集団自決を決めた。

正常な判断ができるような状態ではなかった。

日本刀で家族を斬り殺す人、川に向かい念仏を唱え続ける人、
子どもを次々に川に投げ込む人、
友人と手を繋ぎあい飛び込む女学生たち…

短時間のできごとで、拘束された団長が戻った時には
ほとんど皆死に絶えていた。


大人たちが自分の子どもに手を掛けて
心中をはかるなんて…。

その事実を知った当時の私には
到底が理解できなくて、
ようやく生まれた幼い長男を寝かしつけながら

「なんでこんなに可愛い大切な子を…?」

「そこまで子どもたちを守り抜いてなぜ?」

と苦しい思いになったし、
自分には人殺しの血が流れているの?と鳥肌が立ち困惑した。


だけどそれは間違いだった。


過去の人は未来を知らない

惨殺されるくらいなら
「生きて虜囚の辱めを受けず」
と信じていた当時の人々。

それが彼らにとっては
子どもたちや家族を守る唯一の方法だった。

暴徒やロシア兵に嬲り殺されない、
愛情を持っているからこその選択…。


子どもを持った今ならわかる。
小さな子どもを連れて、敵から逃れる難しさ。
3歳や6歳の子どもをおぶる重さ。
泣いた子をあやしながら、周囲から向けられる視線。

か弱い非力な子どもたちを
守れるのは自分だけという、緊張感。

その先に生き残れる道が
あると、その時は思いもよらなかったから

そうするしかなかった”んだと、わかるようになったのは
それから随分たってからだった。

私たちはその後、引き揚げ船が来ることを知ってる。

生き延びた彼らをしってる。

だけど彼らは日本に帰れるかどうかさえわからずに、
明日の命もわからぬ中を生きていた。

私たちはその後の日本を知っているから
「なんで?!」と思うし
理解に苦しむ。

だけどそこを生きていた人には
先なんて見えないから
そうするしかなかった”。

先を生きる私たちが
私たちの感覚で
ジャッジすべきじゃないと
思ったし、

正常でなんて居られない、
それこそが戦争
だったんだと思ったの。


少女のスカート

祖母から満州の話を聞くことは無かった。
聞かされている人もほとんどいなかった。

「何や知らんけど、大変やったみたいやで」
皆、言葉を濁していた。

それがわざとなのか、本当に知らなかったのかさえ
私には判断がつかない。

私が出会ったのは祖母の姉がどこかに投稿した手記を、引用した本。

そこに書かれていた話で、忘れられない話がある。


祖母の姉は母親に命じられ、
小さな弟妹を大雨で増水した川に投げ込んでいった。

6歳の妹が川の濁流に呑まれていく時、
スカートが水面に、クルクルと広がった。

その子はクルリと廻るとスカートがクルクル広がるのを気に入っていて
よく、姉たちの前で
「見て見て」と
回ってはスカートがクルクル広がるのを見せては
はにかんでいたらしい。

クルクルとまわるスカートが濁流に呑まれて行くのを
祖母の姉はただ、力なく見つめていた。

命からがら帰国して
「人殺し」と言われ、なんで生き残ってしまったのかと
自分もあの時に死ねばよかったのに
なんであの惨劇を生き延びてしまったのか…と葛藤しながら
天寿をまっとうし、亡くなった。

ずっと頭から離れなかっただろう、
沈み行くスカート。

どんな思いで、戦後を生きてきたのか
どんな思いで我が子たちを育て抜いたのか。

祖母や祖母の姉たちが生き抜き、繋いだ命は幾人にも繋がり
私や私の子どもたちが今ここに生きている。

祖母が自らの命を守り抜いたから、
守られた命でもあると知る。


最後に

8月15日、
終戦からが彼らの地獄だったなんて
戸籍の死亡日に気づかなければ、
私は知ろうともしなかった。

「引き揚げで苦労したらしいよ」
「大変だったらしいよ」
という言葉を、言葉のまま受け取っていた。


祖母の一家の身に起きたことを知り、子どもを持った今、
災害や感染症禍、日常が変わるたびに願う。

「どうかどうか、大人がこの小さな子どもたちに手をかけるような惨劇に見舞われませんように」

そうして小さな息子たちに
早く早く身を守れる大人になぁれ

願わずにはいられない。


戦争は、人の一生を
一瞬にして灰色に変えていく。


戦争を知る人が少なくなっていく今、
私は生きてそれを子どもらに伝えなければならない役目があると
ただ思うのだった。


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