広義でのインフレーションについてとその注意喚起
トイレのカギをしめて便器に座り、片手にスマホ、片手に大剣。繊細な作業を始めるとまもなく血流が加速しゴム状だった如意棒が無限のニュアンスを経ながらダイヤモンドの強度にゆっくりと収束を始める。ある時刻t=xを境に鈍器がマシンガンもしくはショットガンに変貌する。完了することのないリロードがすぐに始まりダイヤモンドへの収束速度は二次加速する。極めて野生的で本能的なその一連の動作は空の目的の達成をもって終了する。このとき本来手段だったものが目的となっていることに注意してほしい。
主体をもって行動せしめていたアルゴリズムもしくはプログラムはここで終わりである。残るのはこの動作に必要なエネルギー量に負の符号をつけたものと汚れと匂いだけである。
ところでこのプログラムはもともと、個人の中に内蔵されている 興奮関数 f(x)が一定の値を超えたときに実行される。(xはさまざまな要因で変化し続ける変数である。)一見突発的に見えるこの行動は逆説的だが不定期であるほど健康である証なのだ。ところが惰性的な人間の場合 f(x)の判定機能が劣化し、その値に関係なく習慣的に上のプラグラムが実行され始める。本来突発的だったものが周期的で不健康のものにかわってしまう。いわゆる「義務二ー」である。
義務ニーが繰り返されるとホメオスタシスによってこの一連の行動による血流の加速度は小さくなり、如意棒の硬度の極致は0に近づいていく。ついにはプログラムが実行されても直線y=0の上を移動するだけとなる。これが広い意味でのインフレーションである。
読者の皆様は可能性の種子を下水に流す義務などは感じずに、ときにはあえて本能に任せる勇気を持ってほしい。