ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開:2 /アーティゾン美術館
(承前)
絵は、鏡に似ているなと思うことがある。
以前に観たことがある絵の前にもう一度立てば、あのときの自分がたちまち、額縁の内側に映るからだ。
ご無沙汰の間隔が長いほど、昔を知る旧友に会った気分で、うれしくなる。頻度が多ければ「よっ、また会ったな」と、気軽に声をかけたくなる。
本展には、宮城県美術館が所蔵するヴァシリー・カンディンスキー 《「E.R.キャンベルのための壁画No.4」の習作(カーニバル・冬)》(1914年)が出ていた。
仙台生まれ・仙台育ちのわたしにとっては、マブダチといえる存在。直近では、昨年の12月に宮城県美のコレクション展示でお目にかかっている。「よぉ!」と呼びかけて、背中をバンバンと叩くくらいの気持ちで観た。
このような物言わぬ友人、そして過去の自分との再会が、本展ではじつに多かった。
萬鉄五郎《もたれて立つ人》(1917年)、ロベール・ドローネー 《リズム 螺旋》(1935年)はいずれも東京国立近代美術館の所蔵で、春先に同館のコレクション展示で観たばかり。あら、また会ったわね。ご機嫌うるわしゅう。
けれども、照明や壁・床の色といった環境はまったく異なるし、両隣の作品、展示上の文脈も同様。観るわたしも、まるっきり同じわたしではないだろう。絵との邂逅とは、人に会うのと同じく、じつは諸行無常にして一期一会の体験だと痛感する。
そして、いい絵というものはやはり、いつでも何度でも、私情を抜きにしても、いいものである。
本展の「新収蔵作品」が厳密には初お披露目ではなく、何度も観ているとしても、いっこうにかまわないのだ。
ロベール・ドローネーの作品は《リズム 螺旋》(1935年 東京国立近代美術館)に加えて、もう1点出ていた。新収蔵作品の 《街の窓》(1912年)である。
淡く、やさしい色遣い。プリズムのように、不定形の変化をみせる画面分割に惹かれた。
ロベールのふたつの作品は、少し離れて展示されていた。制作年の古い《街の窓》のほうが、先に登場する。
同じ作家による作品といえど、サイズ感から色みの強弱、受けとる印象、制作年代まで、かなり異なっている。
先に観た作品の記憶がまだ鮮明なところで、新たなバリエーションを提示することによって、展開・変化といったものがより浮き彫りになった気がした。
いっぽうで、同じ作家がまとめてみられるケースも。カンディンスキーがこれにあたる。
前掲・宮城県美の《「E.R.キャンベルのための壁画No.4」の習作(カーニバル・冬)》(1914年)と、新収蔵作品の《自らが輝く》(1924年)が並んでいる姿は、壮観のひと言。とりどりの色彩がにじんだ、夢の共演である。すばらしい壁面となっていた。
250点にも及ぶ出品作品を、ひとつのテーマに沿って編み上げていくにあたっての工夫や苦労に思いを致しながら、会場を進んでいった。(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?