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藤牧義夫と館林:11 藤牧義夫の「編集力」⑦ /館林市立第一資料館

承前

 《隅田川絵巻》は細密には違いないけれど、現実の風景を少しも洩らさず克明に、写実に徹して記録したわけではなく、義夫の意図が加えられた選択・演出の成果といえる。
 要は「描きたいものを描いた」ということであり、そのなかでもとくに描きたいと作者が考えたものが、誇張して表現されていることになる。

 第2巻の途中。どことなく抱一の《夏秋草図》を想起させる草むらの筆致に目を楽しませていると、草々の合間に、帽子をかぶったおじさんがぬっと現れる(1)。絵巻のなかで、人間の姿がこれほど大きく描かれることじたい、なかった。この男、何者なのか……
 これは生身の人間ではなく、日本で初めて西洋靴を製造した斯界のパイオニア・西村勝三の銅像。戦時下の鉄材供出に遭い、現存していない。
 建立当時の写真をみるかぎり、この一事業家の銅像はたしかに巨大だったようだが、周辺のランドマークとなるほど、義夫が描いた頃にはおなじみの存在だったのだろうか。
 少なくとも、向島の現地に通じていなければこれが銅像とは認識できず、草むらのなかにおじさんが突如現れるという、かなり異様な描写となってしまう。見切ろうと思えばできたようにも思えるけれど……画家はあえて、描いた。大きなものを、大きなままに描いたのである。
 穏健な場面に異質・異様なものを配置し、一石を投じる。これも画面構成上のおもしろみであり、ケレン味の一種といえるだろう。

 さらに進んでいくと、蝶々の舞う描写がある(リンク先の画像・左端)。画像では見えづらいが、ごく簡略な筆線で的確に、蝶が羽をはためかせるさまが描かれていた。
 この近景の蝶ひとつで、新たな奥行きが付加される。そして、ささやかな生命の息吹や作家の遊び心を感じさせ、その発見ができた小さな喜びもあいまって、鑑賞者をのどやかな気分へと導く。こちらの「編集意図」は、そんなところだろうか。

 「描きたいものを描いた」ということは、絵巻じたいの構成に関してもいえるかもしれない。
 隅田川の両岸を描いた藤牧義夫の絵巻は3点が現存し、浅草の北側・上流を描いたものが2巻、河口に近い下流を描いたもの1巻となっている。
 すなわち、隅田川近辺でいちばんの盛り場である浅草や蔵前・柳橋のあたりが、すっぽり抜けていることになる。
 そもそも「抜けている」と思われる部分は、描かれたのだろうか。完成できかったとしても、構想には含まれていただろうか……もし、結果として「なかった」のだとしても、それもまたひとつの表現であるとも受け止められるだろう。
 なぜなら、なにかに手を加え、変容と秩序をもたらすことが「編集」だとすれば、今回触れた「強調」のみならず、逆の「省略」「等閑視」もそのバリエーションとして含まれるからだ。
 では、作家はどうして、描く範囲を限定したのか。この区域に対しては、絵画的な興趣をひかれなかったというだけなのか。あるいは、なにか確たる理由があったのか。
 いまとなっては、その答えを出すのはむずかしい。わたしたちは絵をとおして、義夫の天才を知っている。凡人には、その真意がなかなかつかみきれない……
 どこからともなく《隅田川絵巻》の続きがひょっこり姿を現して、上流から下流までが一本につながってくれはしないだろうか。完成作でなくとも、下絵や、制作の背景を物語る手紙・資料・証言などでもいい……わからないこともまた、楽しみのひとつには違いないのだけれど。(つづく



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